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『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(8)

東野家の受難

 話の時期は、再び1942年に戻るが、ケブラケブラは、実はパラナグア湾の南岸地域より半年前、クリチーバの市内で起きていた。
 AYUMIによると、1942年3月19日、ほぼ1万の群衆が、市内中心地のプラッサ・オゾリオに集り、気勢を上げた後、枢軸国人の商店、銀行、工場、クルーベを襲った。
 その頃は未だ市街地の日本人は少なかったが、食糧品店、魚屋、バール、レストラン、アルマゼンが一カ所ずつ被害を受けた。
 食糧品店は、前出の東野一子さんの夫光信さんの家族が営業していた。
 一子さんが光信さんと結婚したのは、ずっと後だが、夫婦ともケブラケブラの被害者だったわけである。
 それだけではない。光信さんの実兄は、日本生まれの日本人であったが、ブラジル陸軍に召集され、イタリア戦線へ出征、戦死してしまった。
 既述した筆者の東野家訪問は、そのケブラケブラと実兄の話を取材することが目的だった。それが、一子さんの件も聞くことになったのである。
 このファミリアは、戦時中の日本人の受難を象徴していると思った。
 取材では、光信さんに、まずケブラケブラのことを訊いた。
 事件時14歳だったという光信さんは、86歳になっていたが、昨日のことの様に記憶が鮮明であった。
 「夜11時頃から、暴徒200人くらいが、私の家を襲いました。私は中二階から見ていました。メリケン粉、砂糖、米、フェジョン、総て奪って行きました。街灯が少なく薄暗いルアを、暴徒が担いで行くサッコの白い色が、目に残っています。米やフェジョンは、50~60㌔入りのサッコに入れて、売っていました。警察は、騎兵が50騎くらい来ましたが、遠くから見ているだけで、掠奪を止めようとも、しなかった!」
 AYUMIによると、襲撃された時、ほかの家族は屋根裏部屋に隠れ、恐怖に震えていた。
 夜明け前、また暴徒が襲ってきたが、奪うものは何も残っていなかった。
 総てを失った。家族は、郊外に移り野菜作りをした。

日本人青年、伯軍兵士として戦死

 次は、実兄の話である。
 戦時中、連合国側に属したブラジルは1944年、陸軍をイタリア戦線に派遣、ドイツ軍と交戦させた。その派遣軍の中には、日系兵士が40数人いた。
 戦前の日系人は、ブラジル生まれでも日本人意識が強く、二世という言葉も殆ど使わなかった。
 が、ブラジル政府から国籍を与えられており、20歳になれば、召集されることもあった。
 筆者は、その40数人の内の生き残りを探し出して『百年の水流』改訂版やニッケイ新聞に連載の『第二次大戦と日本移民』に書いた。
 暫くして、戦死者が一人居ったことを知った。
 ところが、それを筆者に教えてくれた人は、目を丸めて、「その戦死者はブラジル生まれではなく、日本生まれの日本人だったンだよ!」と驚いていた。
 この青年が東野家の長男、重信であった。1924(大13)年、愛媛県に生まれた。父親の名は音市。
 「日本での子供時代、支那事変が始まりまして、私は兄のシゲノブと、出征兵士を駅まで見送ったものです」と、光信さんは、話始めた。
 翌1938(昭13)年、東野家はブラジルに移住した。重信は14歳だった。
 父の音市は、再移住であった。彼は笠戸丸移民で、兄と共に渡航、ファゼンダ・ソブラード(ソロカバナ線)に配耕された。11年後の1919年、単身で帰国、結婚した。
 再渡航後、東野一家は一時サンパウロ市内に住んだが、クリチーバへ移転、食糧品店を開いた。
 店は中心街に在った。
 交通手段は未だ馬車が主力の時代で、近くに馬の水飲み場があった。
 1940年、音市は子供をブラジル生まれとして戸籍をつくった。オカシナ話だが、当時は融通がいくらでも利いた。そんなことをしたのは、時節柄(ブラジル国籍にした方が良い)と判断したためである。この国でもナショナリズムの風が吹いていた。
 その時、重信の名前をジョゼとブラジル式に改め、年齢を実際より2歳上にした。店を彼の名義にしたためである。これが後に取り返しのつかぬ禍を招く。
 1942年3月、東野家は、前記したケブラケブラで被害を受けたが、重信は、この時は別の土地に居た。(名前はジョゼではなく、重信と表記)同年、重信は20歳(実際は18歳)になった。
 ブラジル国籍であったため、召集を受け、陸軍に入隊した。
 翌々年の9月、重信はブラジル第二派遣軍の一兵士としてイタリア戦線へ出征した。
 その時、母親は「親の手違いから、こんなことになってしまった。が、お前にはブラジルに忠誠を尽くす義理はないから‥‥」と脱走を促した。
 当時、脱走兵が出ているという噂が流れていた。
 が、重信は、「いかに手違いとは言え、ここに至って間違いを犯せば、内情を知らぬブラジル人からは、卑怯な裏切り者と罵られ、全日本人の体面に泥を塗ることになる。日本人の自分は、如何なる事態に遭おうとも、恥ずかしい振舞いはしない」と答えた。
 重信は1944年12月3日、激戦地モンテ・カストロで戦死した。近くに居った戦友が、戦後、東野家を訪れ、その最期を語った。
 重信は、衛生兵として担架を持って、負傷兵の収容作業中だった。ドイツ軍の撃った迫撃砲が傍で炸裂、数人が死亡した。
 他の兵士は手や足が、吹っ飛んで、見るに堪えなかった。重信は耳から血を流していた。
 AYUMIによれば、数日前から、ブラジル軍は雨の中でドイツ軍と闘っていた。重信は味方の兵士を救うため「バンザイ(万歳」と叫びながら、駆けていた。その時、砲弾の破片に当たり、転倒した。
 丘の斜面だった。雨が止み、砲煙の向うの大きな赤いボールの様な太陽が、この倒れた日本人兵士の身体を明るく照らしていた。戦友たちが遺体を収容した。彼らは後に「太陽が日本の旗のようだった」と語りあった。