ホーム | 連載 | 2016年 | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ) | 『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(9)

『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(9)

 筆者は、終戦直後の邦人社会の騒乱を長く取材している。感ずることは多々あるが、特に、その渦中で起きた襲撃事件には、心を捉われる。被害者、加害者のことが屡々、脳裏に浮かぶ。被害者には無論同情しているが、加害者の後半生も、時に気になる。
 (どう生きたのだろう
か?)と。
 何処か、日系人の居ない所でヒッソリ暮して生を終えた、あるいは未だ生きている‥‥と想像していた時期もある。多分、若い頃、日本で読み観た三流の小説や映像作品の影響であろう。
 しかし、そういう事例は見つからなかった。見つかったのは、逆に普通の日系コロニア人として暮した、若しくは暮らしているケースだけだった。
 ともあれ、襲撃をした人や縁者からは、できるだけ話を聞くことにしている。この南パラナ取材中にも、ある襲撃者の遺族・知人と会う機会を得た。

ある襲撃者の後半生

 それ以前の事になるが、筆者は、在日本の平原哲也というラジオ愛好家が──昔ブラジルにあった日本語放送を調査して──執筆した書物を読んでいた時、猿橋俊雄という文字を目にした。
 この名には記憶があった。騒乱下の1946年8月、パウリスタ延長線のマリリアで、同じ日に戦勝派による敗戦派の襲撃が二件起きており、内一件の加害者が「猿橋俊雄」だったのである。
 猿橋は、マリリアの北北東約60㌔地点に位置するカフェランジァから同志と二人でマリリアに潜入、別々に一人ずつ襲った。猿橋が銃撃した相手は重傷を負い、同志の相手は即死した。
 平原書によると、猿橋は服役・出所後、何年かしてクリチーバに転住、ラジオ屋になった。
 ラジオ屋というのは、放送局から30分とか1時間とか、電波を買って、日本語の番組(音楽、ニュース、ドラマ、広告など)を流した業者の通称である。
 1952年、日本語放送が許可されると、雨後の筍の様に、このラジオ屋が各地に現れた。最盛期の1960年代初期には、50余の番組が約40の放送局から流されていた。アナウンサーも100人を数えた。
 サンパウロ市では、自分で放送局を経営するラジオ屋すらいた。
 といっても大半のラジオ屋は、ローカル局での時間買いであり、アナウンサーから取材記者、広告取り、資金繰り、雑役までを、数人でこなしていた。一人で何もかも‥‥というラジオ屋も少なくなかった。
 しかし小さくても、時代の先端を行く華やかな仕事であった。テレビ放映はまだ始まっていなかった。
 猿橋は、そのラジオ屋を堂々とやった。地元の邦人社会は、それを受け入れていた。無論、前歴を承知の上である。
 日本なら、まず考えられないことであろう。
 この日本語放送も1960年、規制の動きが始まり、特に1964年の革命以降、きびしくなった。ラジオ屋たちは、次々と廃業した。猿橋も転業した。
 筆者は2013年、クリチーバ訪問の折、予め(前出の)山下亮さんに、猿橋を探して貰った。が、故人になっていた。山下さんは「娘さんが居るが、会ってみるか?」と訊く。
 会わせて貰うことにした。
 そのアメリアさんは、笹谷聖子さんと一緒に待ち合わせ場所(山下さんの別荘)へきてくれた。笹谷さんは、日本語教育界では著名な方だ。ご主人が猿橋と親しかったという。
 猿橋俊雄は神奈川県人で、1924年の生まれである。6歳で家族と移住、17歳の時からカフェランジアに住んでいた。
 襲撃事件後、刑務所に4年居って、仮出所、ガルサ(マリリアの隣町)でミシンや靴の販売をしていた。そこで結婚、1958年にクリチーバに来た。
 ラジオ屋をやめた後は、サンパウロ市から各種の商品を仕入れて来て、販売した。トヨタの小型カミニョンを扱った時期もある。旅行社も開けた。それはアメリアさん夫婦が継いで営業中という。
 猿橋の手掛けた仕事は、総て客商売だった。その前歴からすると、難しい感じもする。が、その仕事をこなした。地元コロニアの世話役すら務めた。
 音楽が大好きで、笹谷さんのご主人と歌謡大会を時々、開催した。
 笹谷さんによると「猿橋さんは、大きな声で話し笑う人でした。大らかな人で、気持ちの大きい、小さなことを気にしない、世話好きな人でした」という。
 ともかく、この人の後半生は明るい。ほかの襲撃者も、筆者が会った人は(殆ど、亡くなったが)明るかった。
 日本から来る新聞やテレビの取材者に、彼らを紹介すると、皆、意外そうな反応を示した。違うイメージを抱いていたからである。人前に出ず、暗く冷たく、今なお危険を感じさせる、といった類の‥‥。
 昔の筆者と同じである。
 現実というものの意外性であろう。これは大発見であった。
 ともあれ、猿橋の過去が、客商売や人づきあいの障害になることはなかった──。
 ちなみに、笹谷さんが、終戦時に住んで居たサンパウロ州ビリグイの植民地では、住民の殆どが、戦勝派だった。彼女も「負け組の人とは結婚しない」と決めていた。が、クリチーバに来てから結婚した相手は、敗戦派だった。ということは、戦勝派であった猿橋と敗戦派だったご主人が、仲良く歌謡大会を催していたことになる。
 猿橋俊雄は、2001年、77歳で他界した。