前項の様な次第で、クリチーバに現れた初期の邦人は、水野龍の粗放さの被害者が多かった。ところが、その水野が1926年、ここに転住してきた。といっても、単なる偶然であったが‥‥。
被害者も殆ど去っていた。
水野は家族連れであった。町外れで小さな農場造りを始めた。歳は六十代半ばを過ぎており、当時としては完全な老人であった。孫ほどの歳の20代の女性を伴っていた。幼児もいた。それがナント、妻女と実子だった。
紹介された方は、口をアングリ開けたまま、言葉を失っていた。ほかに養子だという15、6歳の少年も一緒だった。
水野は土佐人で、生年は1859年すなわち安政6年である。それから120年以上も後の1980年代の初期、筆者は、水野龍の夫人の万亀さんを取材したことがある。
前記の歳の違いを知らなかったため、会うまでは、江戸時代に生まれた人間の夫人が今も生きているということが、どうしても理解できず、何かの間違いだろうと思っていた。
しかし万亀さんは、80歳を超していたが、確かに本人が、筆者の前に現れた。
水野龍の宿願、植民地建設
水野龍は、笠戸丸で失敗した後も、次々と移民を送り込み続けた。
トラブルは減少、日本では「ブラジル移民事業の第一人者」という評も生まれていた。
しかし、その実績には重大な欠落があった。そもそも、移民事業は「植民」を伴わなければならない。移民を配耕先に送り込むだけでは駄目で、植民地を用意し、彼らが自立できる様に助力する必要があった。
水野は、そちらの方は実績ゼロであった。放置したわけではない。何度やっても成功しなかったのである。
最初は、笠戸丸以前に試みていた。前記のリオ州マカエでのそれである。
笠戸丸の折は、サンパウロ州政府が植民地を用意、土地を廉く移民に分譲することになっていた。
が、この契約には「移民が義務を遂行した後に‥‥」という条件がついていた。その移民は義務を遂行どころか、騒動を起こしてしまった。土地分譲は、されなかった。
1917年、日本で移民会社が合併、海外興業㈱が発足、水野は専務取締役に就任した。同年渡伯の折、パラナ州を訪れた。同州政府が広大な土地(原始林)の払下げをしていたのである。
水野は20万アルケーレスという巨大な規模の払下げを申請した。併せて、グアラプアーバ──ポンタ・グロッサ間192㌔の鉄道建設計画も提出した。
州統領は、その実行を希望した。水野は勇躍帰国、大蔵大臣や財界人を説得して廻った。しかし資金は確保できなかった。
実現していれば、本稿第一部で紹介した北パラナ土地会社の50万アルケーレスに次ぐ規模の巨大植民地になっていた筈である。しかも水野の動きは、同社より7年早かった。気宇壮大、果敢といえたが‥‥。
1920年に渡伯の折も、水野はミナス州政府に4万アルケーレスの蚕業植民地の建設計画を持ち込んだ。州統領の了解を得て日本に帰り、海外興業の社長に具体化を提言した。しかし同意を得ることは出来なかった。
水野は辞職し孤軍奮闘した。が、徒労に終わった。空回りに次ぐ空回りだった。
1924年、水野は家族を伴いブラジルに移り住んだ。現地で後図を策そうとしたのだ。最初、サンパウロ州で、地方を回ったが、思わしくなく、クリチーバに転じた。同州の未開発地の広さと地価の安さに惹かれたのである。しかし、資金調達の当てはなかった。
水野は不運でもあった。
1917年以降の彼の動き、特に1920年の海興退社は時期的に、やや早過ぎた。実は1924年から、日本政府がブラジル移植民事業を国策化したのだ。最初、移住を奨励・援助し、1926、7年から財界の協力を得、大型植民地・移住地の建設に乗り出した。
水野が長く唱え続けた移植民事業の国策化が始まったのである。海興に留まっていたら、この新たな流れに乗る事が出来たろう。しかし、そのチャンスを自ら逸してしまっていた。
人の一生には、この種のことがあるモノである。