グアイーラの生き字引は、1958年3月サントス着のアフリカ丸で渡伯した会田(あいた)清さん(79、山形県)だ。同郷会の呼び寄せだった。
「陸路の道ができたのが1960年頃。僕がきた65年頃は、まだ原始林ばかり。雨が降ったらドロドロのテーラ・ロッシャでしょ。アサイから車でここに来るまでに、雨が降ったら一週間もかかった」と思い出す。すごい時代だ。それまでは飛行機や川船による移動が中心だったようだ。
「その頃から橋本さんは謄写版の『グアイーラ新聞』を10年間ほど、毎月1回発行していた。地元コロニアの行事案内、サンパウロなどのコロニアのニュースが中心で、博物関係の話はなかった。あの頃はパウリスタ、サンパウロ新聞などはここまで来ていなかったから、貴重な情報源だった」と懐かしそうに振りかえる。
「この町で『トルデシリャス条約500周年記念式典』が1994年に行われたんですよ」―会田さんは10月1日夜にグアイーラ日伯文化体育協会の会館で行われた交流会で、記念切手を見せながら歴史を解説した。
15世紀半ばから始まった大航海時代の両雄、スペインとポルトガルが、ローマ教皇の立会いのもと、欧州以外の領土配分をきめた「トルデシリャス条約」を1494年に結んだ。大西洋上の子午線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガル、西側がスペインに属することが定められた。
1492年にコロンブスが欧州人としては初めてアメリカ大陸に到達し、その領土争いの激化が心配されたため、ローマ教皇が仲介し、そのように取り決められた。その後、1500年に実際にブラジルが発見され、南米大陸植民地化の動きが一気に進む。
なぜこんな内陸の町が『トルデシリャス条約』に関係するのか―といえば、南米が誇る大河ラプラタの存在が大きい。
戦前に「南米のパリ」といわれた亜国ブエノスアイレスが河口にあるラプラタ河を遡れば、パラナ川とパラグアイ川という支流に繋がる。内陸が原始林で覆われていた時代、唯一の内陸への通路は川だった。
故郷巡りの面白さは、このような歴史掘り起しがあることだ。計算すれば、当然のことながらブラジル発見前の条約だ。
スペインは1557年に、現在のグアイーラの25キロほど川上にインディオ教化部落(グアイーラ帝市、Ciudad Real del Guayrá)を作った。つまり、この町は元々スペイン領だったのだ。(つづく、深沢正雪記者)