2001~02年に会長を務めた須賀博義さん(72、群馬県)に文協の主な活動を聞くと、新年会、運動会、老人会(月1回)、忘年会。市が主催するフェスタ・ダス・ナッソンイス(民族芸能祭)にも参加している。資金集めにはスキヤキ会を年3回行うのに加え、昨年からはヤキソバ会を年1、2回ほど開催するようになった。
カラオケ大会が活発で、西部パラナカラオケ大会(10団体)でもよく優勝常連団体だという。1日の交流会でもカラオケの発表があったが、現地の歌手があまりに上手なので、故郷巡る一行から、なかなか歌う人がでなかったほど。
とはいえ、日本語学校は1990年頃に閉校してしまったという。「デカセギが増えてね、今でも50人以上行っているよ。僕も3回に分けて8年間、工場に働きに行った。日本は良かった」と語った。
須賀さんは9歳で家族と共に渡伯。1954年にアマゾナス州に入った。そこに2年、トメアスーに1年、グアイーラには62年に入った。
「アマゾンは基本的に土地が肥沃じゃないから作物ができない。でも、ブラジル人が島から大きなカボチャを収穫してきたのを見て、父はアマゾンにも肥沃な場所があると気付いた。アマゾン川の中州は増水するたびに沃土が補給されるから、乾期に作物を作って、雨期にはテーラ・フェイミに移る。そんな生活をしていた。あの時は大変だと思ったが、今はむしろ懐かしくてね。一昨年、わざわざ見に行ってきたよ」と懐かしむ。
兄の須賀靖一さん(せいいち、74、群馬県)にも聞くと、「ヴァルガス大統領の肝いりでアマゾンでゴム増産を図ることになり、僕らはゴム移民として入ったんだ。でも入植4カ月目に彼が自殺しちゃっただろ。計画はお流れさ。44家族も新移民が入って、ポ語も誰も分からないなか、事実上、植民地は解散だ。みんな夜逃げ同然でそこを去ったんだ」というブラジルの歴史そのもののドラマを語り始めた。
本格的自動車産業は50年代に始まった。1959年からサンベルナルド・ド・カンポ市にフォルクスワーゲンが工場開設、シボレー、フォードと拡大期に入った。そのタイヤに使われるゴム生産のためにフォードはベルテーラに「フォードランジア」という巨大ゴム農園を作り、コロノを集めたが失敗した。
須賀靖一さんは「それで行ったのがトメアスーさ。1年間、ピメンタ農園のコロノとして働き、お金を貯めた。お金ができたからベレンに出て、リオ行きの船のチケットを買いに行ったら、『書類が一枚たりない』と窓口の係員が言うんだ。ポルトガル語が分からないだろ。心当たりの書類をもっていくけどダメ。ある日、旧移民に通訳してもらったら、黄熱病の予防接種の証明が必要とのこと。すぐ近くに保健所があったから、その場で打ってもらってすぐにチケットを買えた。そんな簡単なことが分からなくて3週間も。その間に宿代でお金を使ってしまい3等切符しか買えなかった。リオまで15日もかかった」と思い出す。
初入植者が、高拓生の庄子二郎さんだったことに始まり、アマゾン移民とグアイーラには不思議な関連がある。戦後にアマゾンから下って来た移民にとって、サンパウロ州や北パラナはすでに日本人が密集していた。そこで開拓精神が旺盛な人々は、開けたばかりグアイーラに可能性に満ちた新天地を見たに違いない。
故郷巡り一行は、最後に故郷を歌い、名残惜しそうに一人一人握手をして会場を後にした。(つづく、深沢正雪記者)