忘れもしない。ブラジルに到着して数日後、生まれて初めて12時間ほぼぶっ続けで車に揺られた。「リオから任地ミナス・ジェライス州ピラポーラまで約800キロを車で移動するってどういうことなんだろう?」当時の私は距離感もつかめず、ただめちゃくちゃ遠いということしかわからなかった。(800キロとは東京から広島までの距離だ)
ピラポーラから日本人会会長の橋口さんと日本語学校校長の白石さんご夫妻がリオまで私を迎えにきてくれた。正午にリオを出発して、夕方7時くらいにやっとベロ・オリゾンテを通過。その後は延々と暗闇の中を車は走り続けた。
とにかく真っ暗なのだ。たまに町の灯りが見える程度で、どんどん暗闇に入り込んで、このままどこかに消えてしまうんじゃないかと思うほど長い時間を過ごした。夜中の12時にやっとピラポーラに着いた時、「人間の住む世界に戻ってきた!」と安心したものだ。
これが24年前、私とピラポーラの出会いだった。サンパウロから1千キロ、ベロ・オリゾンテから400キロ。簡単に都会に出て行くことはできないような僻地で、暇な時間は日本人会館に置いてあった本を読んでばかりいた。
大学生まで読書や作文が苦手だった私が、現在サッカーライターをやっているのは、ピラポーラ時代に本を読むことに熱中したからかもしれない。
田舎で情報も入ってこない中、教師は私一人という環境で孤軍奮闘したことは、時には孤独に苛まれることもあったが、ピラポーラの日本人、日系人の皆さんには、孤独を覆い隠すほどの愛情をいっぱいもらった。
ピラポーラの方達だけでなく、ブラジルに来てから、どれほどご飯を食べさせてもらって、どれほどカローナ(同乗)をもらって、どれほど泊めてもらって、どれほどなんの見返りも期待しない無償のやさしさをもらったことだろう。
ブラジル人の持つカロール・ウマーノ(人の温かみ)にいっぱい触れてきた。
私がサッカーライターの道を歩み始めるきっかけになった一つにピラポーラで知り合った当時のセレソン(ブラジル代表)の選手の存在がある。
フランスリーグFCモナコで活躍していたMFのルイズ・エンヒケが両親のために建てた家には、屋根はあったが天井は無かった。家族たちは、高い教育を受けたわけではない素朴な人たちだった。お父さんは目が見えなかったが抜群の記憶力を持っていた。
「もう少し早くサッカー選手として成功していたら、父親の目を手術させてあげられたのに」と言っていた彼も、選手キャリアの絶頂で膝にメスを入れることになり、その後は選手人生が縮まってしまった。
たった1試合の不甲斐ないパフォーマンスによって、彼はセレソンのスタメンの座を下ろされ、代わりに入ったのはドゥンガだった。そして、ドゥンガは94年W杯優勝の立役者の一人になった。
だから、私は、成功を目指している選手の卵たちの取材、そして既に成功している選手達とインタビューする時、彼らの後ろにブラジルの田舎の風景を見てしまう。
ピラポーラに住んだからこそ、本当のブラジルの姿を見ることができた。貧しいところから這い上がってきた選手たちの背景や家族や友人の応援が目に浮かぶ。試合の前に、家族や友人が集まって手をつないで祈りを捧げていたことも忘れられない。
今、私はサンパウロの大都会に住んでいるが、これはブラジルの中のほんの一部分に過ぎないことはわかっている。コンクリートジャングルに囲まれながらも、ふと目を瞑れば、大きな大きな碧い空と白い雲と、日本語学校に通う子供たちの光景が浮かんでくる。そんなピラポーラがあってこそ、今の私があるのだから。
岐部大野美夏(きべ・おおの・みか)
【略歴】岐阜県出身。49歳。1992年から95年まで海外開発青年として、ミナス州ピラポーラ日伯文化体育協会に赴任。日本語教師を務めた。その後、当地で結婚し、サンパウロ市在住。サッカーライターとして日本の雑誌などで活躍中。
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