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道のない道=村上尚子=(37)

「それにしても、売れるかな?」
 という緊張と期待で心が引き締まる。町に着くと、迷わず日本人ばかりに売って回った。みかん箱にいっぱい近くあったまんじゅうは、一個も残らず売り切れた。嬉しかった。子供たちへの、ささやかな(それでもみんなには大変なもの)お土産と、現金を握って帰ってきた。この日は、家中に電灯が点いたようであった。
 以後、毎晩まんじゅうのための用意や、餡子つくりに励んだ。売りに行くのは、三日に一度である。当時は、和菓子屋はなく、各家庭でまんじゅうは拵えていた。しかし数個のまんじゅうを、わざわざ作るには、大変な手間ひまがかかるので、安い値段で手に入るなら、誰でも喜んだ。
 家に到着する頃「ド・ド・ド・ド」というトラットールの音が、辺りへ響き渡る。
 この音を聞きつけた子供たちは、表に出て三人が横に並んで出迎えている。微動だにしないで、集中しているのが分かる。このトラットールの音に、三人は胸をはずませているだろう。
「ド・ド・ド・ド」この音は私にも楽しい。まるで凱旋してくる音楽のように聞こえる。

 ところがある日、一郎が言った。
「まんじゅう作るのはいいが、疲れましたじゃ、畑仕事は出来ませんじゃ、言うなよ! そがいなことを言うなら、すぐまんじゅう作りなんか、やめさせるぜよ!」
 と、誠に不機嫌で、棄てゼリフのように言った。それ以後、夜も琴子を泣かせまいと、夜通し背中におんぶして、まんじゅうを作った。昼は一郎と同じように畑へ出た。それでも私は、希望に溢れて元気だった。夜も昼も、完全に仕事はこなした。一ヶ月位した頃、あのパトロンだった寒野さんが様子を見に来た。そして彼は、それとなく私を上から下まで眺めて、暗い顔をしている。
「えらい痩せたな……」と言って帰って行った。
 その後。数日して一郎が私の横を通り過ぎようとして、何気なく私の胸のあたりを覗いたらしい。
「ぎょ!」とした声を出した。
「にいやん! ママイに何か食わせろ!」
 と叫んだ。この時の私は痩せこけて、アバラ骨が浮いていたらしい。鏡もないので私も気付かなかった。
 まんじゅう売りは、好調である……

 一郎の作る作物の殆どが、まるで運に見放されているようにうまく行かない。この地へ入って五年過ぎた。どうやら大変な借金で、私たちは断崖の淵まで追い詰められているらしい。
「もう一度トマトを作る」ということに、一郎の心が揺らいでいるのが、私にははっきり見えた。
「これが、最後の勝負や」
 もうすでに勝負はついている。が、彼は諦めきれず、トマト作りの準備は始まった。この年は、えらい暑い。
 雲ひとつなく、太陽の光で空は眩しいほど白い。まさかあの空が、あのままのはずはない。きっと雨は降ると私は思った。山の木々は「じーん」と音がするほど、乾燥した空気に喘いでいるようだ。トマトを植えて、苗の時、雨は一度湿る程度降ったきりである。下にある池を、私は何度も眺めた。あの水を利用する設備はない。
 ただただ、天に任せるしかない。そんな中でも、健気にトマトは伸びた。痩せこけた木だが生きている。