猪俣会長の叔父、猪俣征幸さん(73、大阪府)にも話を聞いた。1959年1月サントス着のブラジル丸で渡伯した。「猪俣家は両親と6人兄弟の計8人で来た。僕は富男の父の弟」と自己紹介した。
「大阪にいた時に区画整理で、自宅があった場所に道路が通ることになり、立ち退き料で入った。最初はバストスに入ったが、一年居なかった。元々商売をやりたかったので場所を探していた。最初に兄がこの町を通って、町並みはみなペンキがぬられて奇麗で気に入った。ここは発展するとピンときて移った。あの頃、アスファルトなどなく、中心部だけ石畳。普通は泥道で、雨が降るとクリチーバまで車で一週間かかった」。
最近の話題としては、日本でも有名なアルシンドがここに大農場を持っている話になった。
「神戸大震災の時は、ここのCopavel組合が鶏肉15トンを被災者に寄付したいと、クリチーバの総領事館に相談したが結局はダメだった。東日本大震災が起きた翌日の土曜日、ここに住んでいる元Jリーガーのサッカー選手アルシンドと僕らが『何かできないか』と話していて、義援金集めの親善サッカー大会をやろうという話になった。彼がジッコに電話してOKをもらい、最初はカスカベルでやる予定だったけど、ジッコが『それじゃ不便』とクリチーバでやることに。あの時、カスカベルからもバスで応援にいった。アルシンドは何かあれば相談に乗ってくれる頼もしい人」という。
この町にもコチア青年がいた。松下喜美雄さん(きみお、78、長野県、2次2回)だ。北パラナは青年隊が多かったが、西パラナだとコチア青年のようだ。「この町にはコチア青年が3人いた。一人は2年前に死んだ遠藤邦夫(くにお)、もう一人は岡部初郎(はつろう)」とのこと。
松下さんは59年に渡伯し、ロンドリーナのカフェザルへ。「ここでは何を生産しても先輩が多く、太刀打ちが難しい。新しいカスカベルなら競争が少ないだろうとやってきて、ずっと野菜を作っているよ」という。
「1960年に、ここに流れ着いた」と豪快に大笑する。1アルケール半の畑で葉物中心。「今皆が食べてるのも、僕が畑から持ってきた」。レストランやスーパー、市場にも出す。
「標高700メートルでたまに雪が降る。パラナ松が生えるところは土地が悪い。元々この辺はパラナ松の大産地で、僕らが来た頃はあちこちに製材所があった」と振りかえる。
「土地が悪いから最初はみんな野菜を作りきらなかった。だから商売になった。最初の頃は、野菜自体食べなくて困った。今でも人口に比べたら消費量は少ない。その割に競争は激しいから儲からない。ここは日本人が少ないから大根や白菜は出ないね」(つづく、深沢正雪記者)