カスカベル現地で野菜生産する田邉誠さん(75、新潟県)は1961年11月に呼び寄せで渡伯。北パラナのアサイ移住地の近く、アモレイラに入植した。「日本の物差しは小さすぎ、生活に夢がなかった。まだ20歳、若いからコラージェン(勇気)、度胸があったんだな」と笑う。1年半のコロノ(農業労働者)生活を経て、カスカベルへ。
「地図が好きでね。あの頃、夜になると毎晩ずっとパラナ州の地図を見ていたんだ。どこへ行こうかなって。カスカベルは幹線道路が交差して、交通の要衝だなとピンときた。よし、行こうって。まったく知り合いもいなかったが、飛び込んで来たんだ」。
以来、アルファッセを中心には野菜を55年間作り続けている。「独身頃にフェイラ・リブレ(青空市)が始まった。あの頃は怖いものナシだろ。フェイラで野菜を売っていたんだが、『同じ値段で売れ』って圧力をかけてくるんだ。俺は良い野菜を作っているという自信があったから、高く売っていた。それでフィルカルと大喧嘩になって、ついにカデイラ(留置場)に2日間も入れられた。フィスカルが俺んところに来る前に、商売敵のイタリアーノと話し込んでいるな、とは思っていたんだ」。
「後から聞いたら、そのフィスカルが副市長だったんだ。どうも偉そうだとは思ったんだ。でもね、後からちゃんと仲良くなったよ。耕運機に野菜を乗っけて街中を走るのは、カスカベル広しといえど俺一人。いつも耕運機の後ろに子供が5、6人もぶら下がっているんだ。あるとき、市長と話していたら『俺も昔、お前の耕運機にぶら下がっていた』っていうんだ。歴代の市長もだいたい俺のこと知ってるよ」。豪快な人物だ。
今では息子は水耕栽培、娘は市役所勤め。「昔はこの町は若い人ばかりだったが、彼らがここに落ち着くと、そのうち親を呼び寄せるんだな。そうすると高齢者もふえてくる」。
交流会会場には、鳥取県人会の県費研修生として2007年に米子市の県立リハビリセンターに10カ月間、研修を受けてきた木下ミリアン春美さん(43、三世)の姿もあった。パラナバイ市生まれ、3歳からカスカベルで育ち、16歳からクリチーバで勉強して州都のPUC大学を卒業した才媛だ。現在は鳥取で研修した技術を活かして、カスカベルの施設で働いている。
木下さんは「日本の方が先生と患者の関係が近い、優しい。患者の言うことを良く聞く。そうすると患者がこっちを信用するようになる。ここでは短い時間にたくさん相手をしなくてはならないから、いちいち患者の言うことを聞かないで、こっちからの指示ばかり。日本の様に親身になれない部分がある」と比較する。「日本での研修は本当に勉強になった」とほほ笑んだ。
夜10時になり、本橋団長は「50年前にこの町に来たことあるが、泥道でまったく別物だった。今では日系団体も立派に活動しており、太鼓も素晴らしかった」と別れの挨拶をすると、猪俣会長は「楽しく交流できて我々こそ感謝している」とのべた。
故郷巡りへの最多参加者の一人、多川富貴子(80、三重県)は「ここは結束が強いのに感動した。親が子供の太鼓の練習に一生懸命になっている姿がすごく心に残った」と喜んだ。(つづく、深沢正雪記者)