キューバのフィデル・カストロ前評議会議長が現地時間の25日、90歳でその一生を終えた。1959年のキューバ革命以来、1962年のキューバ危機でのアメリカとの対立のみならず、ブラジルを含めた中南米の歴史を大きく左右した同氏の影響について、2回にわたりたどっていく。
59年1月1日のハバナ占領により、フィデル、ラウルのカストロ兄弟やチェ・ゲバラ氏たちが率いた反政府の統一戦線が、親米のフルヘンシオ・バチスタ大統領の軍事政権を倒したことは、社会格差の激しい中南米諸国に大きな影響を与えた。これを機に中南米諸国にゲリラ部隊が結成され、ブラジルにも200人規模のゲリラが生まれた。
59年2月にキューバ首相に就任したフィデル氏は当初、アメリカとの関係を保つとしていたが、60年5月に同国内の米国企業を国営化したことでアメリカ政府はキューバの社会主義化を恐れはじめた。更にキューバがソ連に接近したため、61年1月3日に米国はキューバとの国交を断絶した。
また、革命政権の誕生後、キューバの新政権がバチスタ政権の政治有力者を処刑したりするなど、同政権の人権的な道義も問題視されていた。調査団体「キューバ・アーカイヴ」の調べによると、カストロ政権下では8190人が、体制に反対したことによる処刑などで殺されたという。また、キューバを後にした難民数も、全世界では150万人にのぼり、その独裁ぶりも問題視されていた。
更に、62年のキューバ危機で世界が「あわや核戦争か」の危機を迎えると、キューバ革命を期に各国内で盛り上がりを見せていたゲリラや社会主義の運動を問題視しはじめた中南米諸国では、「第二のキューバになるのを防げ」とばかり、右翼軍事政権が次々と立ち上げられた。
ブラジルでも64年3月31日に軍事政権が成立したが、時のジョアン・グラール大統領は社会主義者として知られており、また同氏の義弟で国外逃亡したリオネル・ブリゾラ下院議員(当時、リオ選出)は、国内最大級のゲリラ部隊「全国革命運動」の精神的指導者と目されていた。
だが、60年代後半から70年代にかけて、軍事政権による抑圧でも、反米の激化などから左翼運動やゲリラ活動が激化。これに対しアメリカと各国の軍事政権は協力して「コンドル作戦」を行ない、政治犯を厳しく取り締まった。
その結果、チリのピノチェト政権やアルゼンチンのビデラ政権では万単位の政治犯が処刑で命を落とし、ブラジルでも公式で434人の死者が出た。
だが、フィデル氏を信奉した若き政治犯たちはこれで息絶えた訳ではない。それどころか、約20~30年後、その影響力は更に大きなものとなることになった。(つづく)