ところが、そこの社長の任期が終わり、次の社長がその家に入って来た。それが、あの叱りつけた人であったとのこと。
前社長の話に戻るが、トイレで用を足しても水も流していない。頭にきたばあさんは、紙に大きな字で「用を足したら水を流すこと」と、トイレに貼り付けた。社長の他は誰もいないこのトイレにー
息子というのが休暇を取り、アメリカからやって来て、彼はばあさんに料理を作ってやった。どうも本格的な西洋料理らしく、そうとう時間をかけたようである。息子は満足そうな笑顔で、その料理をばあさんの前に出した。
「食べてごらん、おばさん」
「私しゃあ、そんなもんは食わん」
「一口だけ食べてみて!」
ばあさんは、一口食べた。根っから日本食以外の味が、ぴんと来ない。後は食べなかったそうだ。それはいいとして、ばあさんはその青年を、自分の仕事に使い始めた。週に二度、フェイラ(朝市)へ行く。荷物運びは、少しの賃金でやってくれるブラジル人がいる。しかしばあさんはこの青年を使い始めた。その日がやって来ると、息子はまだ寝ている……
「どうしたことな! 近頃の若いもんは! 起きなっせい」と叩き起こす。
フェイラで買った色々な材料は、息子がカリーニャ(カート)に入れて運び、ばあさんは手ぶらで帰ってくるのだ。
そんなばあさんの癇癪を、私もとうとう目撃した。もう彼女は目もかすんで、足腰も弱っている。
ある日、やはり商社の社長が、お付の者たちと、食事をしていた。この時、テーブルを拭いているつもりのばあさんは、お茶の入った湯呑みを、ひっくり返した。社長の背広が濡れた。
「あっ、どうもすいまっせん!」
と言って、布巾でその辺りの水気を掃除した。社長は、ぶつぶつと機嫌が悪い。しばらくして、又もやぶつぶつ言いながら、自分の背広の水気を払い落としていた。この時、ばあさんが声を上げた。
「ひとが謝ったのに、いつまでも文句を言いなはる! 大会社の社長ともあろうもんが、なんな! 私しゃあねえ、その辺りの馬車引きかなんかなら、言いまっせんよ、いい加減にしなっせい!」
この小柄なばあさんの、どこからこんな気合が入るのか?
ここは芸能人、ファッションモデル(ブラジルの)、有名な作曲家と、色とりどりの客が来る。団体の客は、二階の部屋が使われる。客の顔ぶれを見ただけで、巾広く名の通った店だなと思わせる。しかし「花園」と違って、気取ったところはない。女将は細身で面長、大きな目は、いかにも気さくで親しみがある。カラッとした話し方で、少々男っぽい。そこが客には魅力なのかも知れない。
ある日、この女将が、外から心持「なよっ」として店に入って来た。真っ直ぐ私の側に寄って来て、
「ねえ、尚ちゃん! 今すぐ客が何人か来るから、その人たちを接待してね……」
と、すがるような声。聞く所によれば、隣の寿司屋に用があって入っていったところ、
「おう! すごい美人! 隣の店か? なあ、オレたちも行って見よう!」
と言うのが聞こえたとのこと。女将にすれば、そんなことを言われると、どう期待に応えたらよいか分からないらしい。それこそ、その辺の穴にでも、もぐり込みたそうな風情である。