ホーム | 日系社会ニュース | 奄美群島ものがたり=渡伯者を慕う人々の想い=サンパウロ市ヴィラ・カロン区在住 毛利律子=<下>

奄美群島ものがたり=渡伯者を慕う人々の想い=サンパウロ市ヴィラ・カロン区在住 毛利律子=<下>

▼松井ツネ子さん、94歳のお話

とても記憶がしっかりした松井ツネ子さん(94歳)

とても記憶がしっかりした松井ツネ子さん(94歳)

 翌日の11月29日早朝に、私どもは鮫島さんの案内で有料老人ホーム「いきいきホーム」にいる松井ツネコさんを訪ねた。松井さんは94歳と伺っていたが、たいへんお元気であった。
 昔のことを細かく覚えておられ、また言葉使いもとても上品で、年齢を感じさせない方であった。
 ツネコさんのお父さんの二番目の姉・フジヅルさんが宇検村の芦検から1930年ごろ(年代は記憶に曖昧の様子であった)、農業移民として渡伯し、リオに入植したという。
 当時は宇検村から陸伝いで行くには二日ほど掛ったので、小さな港から伝馬船に乗って、50トンほどの豊丸に乗り、名瀬の港に向かったといったことを鮮やかに思い出し、話してくれた。
 その後、日系人のカワバタさんという方と結婚し、写真が送られてきたが、手紙には、お米を販売する店を経営していたそうであるが、結構繁盛したそうである。
 とにかく水に不自由をしていること。治安が悪く、ちょっとの間に止めておいた自転車をすぐに盗まれてしまったこと。泥棒が多いので、金品の扱いにはちょっとも油断ができない。ブラジル人の教養の程度が極めて低いために、とても苦労している、といったことが認めてあったそうである。
 長男のサネゾウさんが一時帰国した際には、綺麗な石のネックレスなどいろいろなお土産を持ってきてくれて嬉しかった。サネゾウさんには二人の娘さんの写真を送ってくれたが、二人が奄美では見たこともないような白いレースの服を着ていたことや、日傘をさして歩くと、行き交う人が振り向くといったことを話していた。
「残念なことに長いこと音信が途絶え、リオのオリンピックの模様をテレビで見るにつけ、その方々のことが何かにつけて思い出されるようになった。人生長生きするのがよいのかどうか。いろいろと、多くの人のことを思い出すにつけ、涙が流れます」と、しみじみと語っておられた。
 松井さんとは短い時間であったが、94歳の方がしっかりと記憶した過去を語る姿やお声は、つよく心に残った。
 松井さんに別れを告げて、空港に向かう車窓から眺める奄美の自然は、意外にも森が深く、南国らしい日差しを受けて煌く海も、白い浜辺も目に焼き付いて忘れられない。
 途中に、マングローブの深い繁みがいくつかあり、奄美はマングローブ生息の北限だと知った。そして、リオでも同じような風景を見たであろう奄美の移住者たちの想いが、ふと脳裏をかすめた。
 移民一世、二世の方々の中には成功した方も、そうでない方もいる。「結局は自分が決心して、ここまで来たことですから」という言葉には万感の思いが込められていることを痛感することがたびたびある。
 日本で生まれ育ち、祖国を知っている者にとって「もし、あの時移民をしないで日本にいたら、どんな暮らしをしていただろうか…」と、誰しもが自分の決断を後悔することもあったかもしれない。戦前移民の方々を送り出した家族の思いもいかばかりであったかと、想像がつく。
 私はブラジルに住むようになって初めて、自分のことを含めた日系移民のことに関心を持つようになった。それまでは友人知人に日系移民がいたとしても、自分がそこで生活を始め、住民とならない限り、それらは他人事であり、上の空の出来事であった。
 今回、39年ぶりの奄美大島再訪を果たし、わずか一泊二日の短い滞在であったが、奇しくも戦後移民を送り出した縁者の、時空を超えてつながる肉親への思いというのを直に聞かせていただく機会を得られたのは、今後の自分の日伯両国での人生を考えるうえで、大変貴重な経験となった。
「なぜか、あの方たちのことを思い出すと心が痛むんですよ」と涙ながらに語ってくれた田畑光代さんや、松井ツネ子さんの深い愛情と優しさが忘れられないのである。
「ブラジル移民の情報募る」の一文に注目し、おぼろげな記憶を手繰り寄せながら、ゆかりのあった方々のことを話してくださった田畑光代さんや恵松郎さん、松井ツネ子さん、滞在中に大変お世話になった鮫島さんご夫妻に、改めて篤くお礼申し上げます。
 今回、奄美大島の県人会会館「奄美会館」が、私の住むヴィラ・カロン区にあったことを始めて知った次第である。ブラジルに戻って落ち着いたら、ぜひ奄美出身の日系人について勉強したいと念願している。(おわり)