12月3日、シャペコでは朝から冷たい雨が降り続いていた。
正午過ぎ、シャペコエンセのホームスタジアム「アレーナ・コンダ」に最初の棺が到着すると、スタンドを埋め尽くした観衆が総立ちになり、自然発生的に「カンペオン・ヴォウトウ!」(チャンピオンが帰ってきた!)と大声で歌い始めた。涙声も混じっている。
ブラジルへ渡ってからちょうど30年間、ほぼ毎週1、2回、数え切れないぐらい各地のスタジアムへ通っている。だが、これほどまでに強い感情がこもったチャント(短い応援歌)を聞いたことがない。サポーターの無念さとクラブへの愛情が心に突き刺さり、目頭が熱くなった。
この場合の「カンペオン」とは、「優勝チーム」ではなく「偉業を達成した人、ヒーロー」という意味だろう。
また、もし11月30日にコロンビアのメデジンで行われるはずだった試合に勝っていたら、彼らは「ほぼチャンピオン」として凱旋していたはずだ。それが、今、クラブの旗で覆われた小さな棺の中に横たわり、冷たい雨に打たれ、無言で帰国したのである。
雨が激しくなった。涙雨、などという生易しいものではなく、天も号泣しているようだった。
日本でも関心を呼んだ突然の悲劇
サンタカタリーナ州のほぼ西端に位置するシャペコ――。ブラジル在住の日本人はもとより、ほとんどのブラジル人もまず行ったことがないのではないか。かくいう私も、今回、初めて訪れた。
これといった観光名所などない人口約21万人の町で、主な産業は食品加工。住民の大半はイタリア系移民の子孫だ。
この平凡な町が、不幸な出来事のせいで、一躍、世界中にその名を知られることとなった。
11月28日夜(ブラジル時間では29日未明)この町に本拠を置くブラジル全国リーグ1部のシャペコエンセの一行を乗せた飛行機が、コロンビアのメデジン空港手前の山岳地帯に墜落。乗客・乗員77人のうち71人が死亡したのである(内訳は、選手19人、会長、監督、コーチらクラブ関係者26人、取材のためチームに同行していたマスコミ関係者20人、乗員6人)。
生き残ったのは、選手3人、マスコミ関係者1人、乗員2人の6人だけだった。
シャペコエンセは、南米のクラブカップ戦であるコパ・スルアメリカーナの決勝第1レグでアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)と対戦するため、メデジンへ向かう途中だった。
犠牲者の中にはカイオ・ジュニオール監督、主将のMFクレベル・サンタナらJリーグ経験者が5人もいたせいもあり、日本でも大きな関心を集めた。
私はサンパウロ在住のサッカージャーナリストで、日本の新聞、雑誌、インターネットメディアなどにブラジルと南米のサッカーに関する記事を送っている。事故があった11月29日、その第一報をあるスポーツサイトに書いた。
すると、翌30日、別のメディアから「シャペコエンセについて、何か書いてくれ」という依頼が舞い込んだ。「犠牲者の遺体がシャペコに戻ってきたときに現地にいて取材をしたい」と伝えたところ、即座に了承してくれた。大急ぎで情報を集めたところ、その日の夜にも遺体が到着する可能性があるとわかり、すぐにシャペコへ飛んだ。
「上昇に上昇を続け、ついに天まで」
しかし、30日夜、遺体は到着しなかった。まだメデジンを出てもいない。
いったい、遺体はいつ到着するのか。宿泊したホテルからシャペコセンセのスタジアムまでそう遠くないとわかり、翌朝、情報収集を兼ねて徒歩でスタジアムへ向かった。
町を歩き始めてすぐに気付いたのは、通りが清潔で、物乞いがおらず、ファヴェーラも見当たらないこと。これだけでもサンパウロの住民にとってはかなり新鮮だが、もっと驚いたことがあった。
信号がない交差点で、歩道の端に歩行者がいるとほぼ例外なく車が停車し、先に渡らせてくれるのである。これは、世界でも先進国のごく一部でしか見られない光景だ。
交通道徳がでたらめなブラジルにこんな町があろうとは、全く思いもしなかった(サンパウロへ帰ってこんな話をしても、おそらく誰も信用しないだろう)。
黒人がほとんどおらず、日本人、日系人も見当たらない(後になって、シャペコ日伯協会という日系団体があり、会員が80人近くいることを知った)。
市民の大半が緑のシャペコエンセのユニフォームを着ており、ほぼすべての店が緑と黒を組み合わせた飾りを付けて犠牲者を悼んでいる。町中が事故を心から悲しみ、喪に服していた。
セントロの広場に面して大きなカテドラル(サント・アントニオ大聖堂)があり、その手前を左へ折れて15分ほど歩くとスタジアムに着いた。
すでに多くの報道陣が詰めかけている。クラブの広報担当者を探して今後のスケジュールについてたずねると、「明日(2日)の正午に着く予定」という。また、「報道陣の数があまりにも多いので、午後、記者パスを発行する」とのことだった(最終的に、世界22カ国からやってきた約1000人が取材した)。
スタジアムの内部にある通路の片側の壁に、たくさんの追悼メッセージが貼られている。亡くなった選手やクラブ関係者らの写真が飾ってあり、花束が手向けられている。
メッセージを丹念に読んでいくと、途中から涙が止まらなくなった。それは、たとえばこんなメッセージがあったからだ。
「きっと神様が天国でサッカーの試合をしたくなって、地上で最高のチームを呼んだのでしょうね。シャペ(シャペコエンセの愛称)、愛してるわ」
「2009年4部、2010年3部、2013年2部、2014年1部、2016年コパ・スルアメリカーナ決勝進出…。あなたたちは上昇に上昇を続け、ついに天まで昇ってしまった」
(つづく)
【著者紹介】61歳。1955年山口県防府市生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。1986年のW杯メキシコ大会をフル観戦。「これが本当のフットボールだったんだ」と驚愕。1986年末にサンパウロへ移住、以来、南米のフットボールを見続け、日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトに寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)など。シャペコエンセのルポ詳報は12月12日発売の「週刊プレイボーイ」に掲載された。