ホーム | コラム | 特別寄稿 | シャペコ現地ルポ=「カンペオン・ヴォウトウ!」=街角にあふれるクラブ愛=サンパウロ市在住ジャーナリスト 沢田啓明(ひろあき)=(下)=パイロットの苗字は「ムラカミ」

シャペコ現地ルポ=「カンペオン・ヴォウトウ!」=街角にあふれるクラブ愛=サンパウロ市在住ジャーナリスト 沢田啓明(ひろあき)=(下)=パイロットの苗字は「ムラカミ」

ラミア機の墜落現場に駆け付けるコロンビア空軍のヘリコプター(Foto: Fuerza Aérea Colombiana)

ラミア機の墜落現場に駆け付けるコロンビア空軍のヘリコプター(Foto: Fuerza Aérea Colombiana)

 ふと横を見ると、二人用の小さなテントが二つ張ってあり、中から足が何本も突き出ている。
 テントの前にいた若い男性と女性に声をかけた。
「君たち、ここで何してるの?」
「『トルシーダ・ジョーベン』というサポーターグループのメンバーなんだ。事故の第一報を聞いた29日朝から、ここで寝泊りしてる。毎日、みんなでお祈りしたり、クラブソングを歌ったり、市内で行なわれる追悼ミサなどのイベントに参加している」
「みんな、学生?それとも社会人?」
「学生も社会人もいるわ」
「とすると、学校の授業や仕事はどうなってるの?」
「もちろん、行ってない。どうせ何もする気になれないから、同じことさ」
 ブラジル人は、良くも悪くも自分の感情に素直に行動することが多い。それはよくわかっているつもりだったが、まさかここまでやるとは…。彼らの「シャペ愛」に驚いた。
 2日もスタジアムへやってきたが、また予定が変わっていた。「3日朝、ブラジル人の犠牲者65人中シャペコエンセに直接関係のある50人の遺体がシャペコ空港へ到着する。棺を飛行機から下ろして3台のトラックに積み替え、市内を走って市民に別れを告げ、正午前後にスタジアムに到着し、それから合同のお葬式をする」ということだった。これ以上の変更は、さすがにもうなさそうだった。

実は日系ボリビア人だったパイロット

 時間がたつにつれて、事故の原因が明らかになってきた。
 当初は「電気系統の故障」とされていたが、実際には燃料不足だったらしい。
 シャペコエンセの一行は、11月27日にブラジル全国リーグの試合のためサンパウロに滞在し(実は、私はこの試合を取材している)、翌28日、サンパウロからサンタクルス・デ・ラ・シエラ(ボリビア)を経てボリビアの小さな航空会社「ラミア」のシャーター便でメデジンへ向かったのだが、サンタクルス・デ・ラ・シエラからメデジンまで約3000キロ。
 一方、事故を起こした飛行機が燃料補給をしない場合の飛行距離も、約3000キロ。
 つまり、燃料に全く余裕がなく、航空専門家によれば、本来ならメデジンの手前の地方空港に降りて燃料を補給するべきだった。
 ところが、「ラミア」のパイロットが会社の共同経営者の一人でもあり、出費を抑えようとして燃料補給を断念したらしい。
 そのパイロットの名前は、一般に「ミゲル・キロガ」と報じられていた。南米人によくある名前だ。ところが、サンパウロへ帰ってから調べたところ、彼のフルネームは「ミゲル・アレハンドロ・キロガ・ムラカミ」。
 つまり、日系ボリビア人だった。そう思って彼の写真を見直すと、日本人の血が幾分か含まれているように思える。
 ホテルへの帰り道、シャペコセンセの選手のユニフォームをたくさん天井から吊るしているギフト店を見つけ、中へ入ってみた。
 ほぼ全選手のユニフォームがあった。中年の上品な女性オーナーは、「この店にも、選手たちが買い物に来てくれたわ。みんな、とってもいい人たち。自分の家族か親しい友人が亡くなったようなショックを受けている」と涙ぐんだ。
 ここでも、大いなる「シャペ愛」を感じた。

まわり全員、もらい泣きしながら取材

 3日のセレモニーでは、クラブを代表してイヴァン・トッゾ会長代理(副会長だったが、クラブを躍進させた最大の立役者であるサンドロ・パラオーロ会長が死亡したため昇格)が世界中のサッカー関係者とファンからの激励に感謝し、「選手たちは英雄として旅立ち、伝説となって帰還した」と述べた。「犠牲者に心からの祈りを捧げたい」というローマ法王からのメッセージが代読され、このセレモニーに出席するためブラジルを訪れたジャンニ・インファンティーノFIFA会長が「我々はシャペコエンセのことを永遠に忘れない。クラブ再建のために協力する」と語った。
 追悼セレモニーのプログラムがすべて終わったとき、ハプニングが起きた。遺族たちが選手の写真やユニフォームを掲げ、セレモニーのために仕切られたピッチ全体の四分の一ほどのスペースを行進したのである。妻、幼い子供たち、両親…。みんな、泣いている。スタンドからは、選手一人ひとりの名前がコールされた。
 そして、突然、若い小柄な女性がGKダニーロの写真を掲げてピッチ中央へ歩き始めた。顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくっている。
 ダニーロは、コパ・スルアメリカーナで奇跡的なセーブを連発してチームのピンチを何度となく救い、サポーターから最も人気があった選手だ。女性は、彼の奥さんに違いない。総立ちのサポーターたちが、ダニーロの名前を叫んだ。
 彼女が目指したのは、かつて愛する夫が数々のビッグセーブでサポーターを狂喜させた場所だった。ゴールの中に写真を置き、短い祈りを捧げた。
 彼女の痛み、思いが痛いほど伝わってきた。涙が止まらない。周りを見ると、他の取材者も泣きながら写真を撮り、彼女にマイクを突きつけて話を聞こうとしていた。
 長年、サッカーを取材しているが、こんな経験は初めてだ。今後も、まずないだろう。


生きること、死ぬこと、そしてフットボール

 帰りのサンパウロ行きの飛行機は、3日後まで満席だった。サンパウロからも取材者が大勢やってきたせいだろう。
 ただし、僕の本当の仕事はここから始まる。日本の雑誌へ送る原稿を書かなければならないのだが、ホテルではどうにも落ち着かない。いろいろ考えた末、帰りの飛行機のチケットをキャンセルし、バスで帰ることにした。ただ、サンパウロへの直行バスは午後の早い時間に1本あるだけで、もう出ていた。やむなく、その日の夜行バスでクリチーバまで出て、そこからサンパウロ行きに乗ることにした。乗り継ぎを含めて約15時間かかるが、仕方がない。
 バスに乗っている間、それまでに集めていたシャペコエンセとその事故に関する資料を読み込んだ。疲れると眠り、目が覚めるとまた資料を手に取った。
 この4日間、シャペコで実に多くのものを見て、多くのことを考えた。心優しい人々と、彼らの悲しみ、涙、激しい雨の中で繰り返されるチャントとコール…。
 生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどんなことなのか、フットボールとは一体何なのか…。
 もちろん、そう簡単に答えなど出ない。それでも、自分にとって、日常から離れてこれらのことをじっくり考えたことに意味があるような気がした。(終わり)