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サンパウロ市のパウロ枢機卿逝く=軍政と戦った人権の擁護者

在りし日のパウロ名誉枢機卿(29/09/2015、Luiz Guadagnoli/SECOM)

在りし日のパウロ名誉枢機卿(29/09/2015、Luiz Guadagnoli/SECOM)

 14日午前11時45分、サンパウロ市司教区大司教も務めたパウロ・エヴァリスト・アルンス名誉枢機卿(95)が、多臓器不全で天国へ凱旋したと15日付現地紙が報じた。
 同枢機卿はドイツ移民の子供で、1921年にサンタカタリーナ州で誕生。39年にフランシスコ会に入り、リオデジャネイロ州ペトロポリスで訓練後、大学で神学と哲学を修め、45年に司祭となった。
 パリ留学中は文学や教育学を学び、博士号取得後に帰国。60~70年代にサンパウロ市司教や大司教を歴任。同市北部中心に低所得者救援の企画を無数に展開し、人望も厚かった。
 彼の生涯を象徴するのは、軍政反対と人権擁護で、枢機卿になった1971年にサンパウロ市司教区の司祭ら2人が逮捕され、拷問を受けると即刻抗議。軍の圧力を受けた枢機卿達への支援を表明後、エミリオ・メディシ大統領(当時)にも会って政治犯にも正当な裁判をと訴えた。72年にはサンパウロ市に「平和と正義の審議会」を開設。「平和の証人」と題する文書発行の旗頭となって軍政を強く批判し、衆目を集めた。
 同氏はセー聖堂で軍政下の犠牲者達のミサを行い、77年のカトリック大学への軍侵入事件にも敢然と抗議。76年にアルゼンチンで起きた軍政下の犠牲者支援活動でも重要な役割を担った。79~85年には「ブラジル・ヌンカ・マイス」というプロジェクトを主導し、軍裁判所の審理関連の書類100万枚以上をマイクロフィルムに収めて国外に保管。民政復帰に関する書類紛失を防ぐ一方、ジミー・カーター米国大統領(当時)に行方不明者の名簿を届ける作戦にも参加した。
 85年には、妹のジウダ氏らと共に、子供を牧会する機関を創設。96年に名誉枢機卿となった後も住民らと信仰生活を守っていたが、気管支肺炎で11月28日にサンパウロ市内のサンタカタリーナ病院に入院。12日に同氏を見舞ったオジロ・シェレル枢機卿が持たせた十字架を握ったまま、14日に召天した。
 同日夜からセー聖堂で始まった通夜には無数の人が集まり、テメル大統領はじめ、歴代の大統領やサンパウロ州知事などからの弔辞も届いた。最初のミサでオジロ氏は「故人は十字架称賛日の9月14日に生まれ、十字架の聖ヨハネの召天日に天に帰った。この方の人生は、人権や社会的な正義といった部門中心に、重荷を負う人々を助けるという、正に、十字架を背負った人生だった」と語った。
 パウロ名誉枢機卿の遺体は、16日午後3時からのミサの後、セー聖堂地下の墓地に葬られる。