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道のない道=村上尚子=(54)

 早いもので……この店も二年になろうとしている。そんなある日、一人の客からラブレターをもらった。彼はいつも窓際に座る。細身で顔は丸でも四角でもない。その中に、くせのない目鼻が、いつでも微笑む用意をしている。手紙の内容は、
「私の趣味は囲碁で、碁のことしか知りませんが、大事なのは『石の方向』というものがあります。石の方向とは、目の前で色々なことが起こって行きますが、大局を見定めて、石を打って行かないと、結局負けになる。自分はそんな目でママさんを選びました。間違っていないと思う。付き合っていただけませんか」というようなものであった。
 文字の一字一字が、飾り気ない、生真面目な形で並んでいる。名は、河口友行とのことであった。
 今の私は、両肩の荷物をはずされて、これから一人で自由に歩いて行ける。その道が目の前に広がっているようだ! なので、とてもそんな心境ではない。手紙の事も忘れていた。
 私の夢は遠のいたけれど、ふと思った。父は今まで長男に賭けた夢を、一度も私へ向けてくれなかった。もし、一度でも向けてくれたら、どうだったろうか……きっと……
 恐る恐る父にそれを言ってみた。父は微かに肯定するように首を縦に振ったのが、忘れられない。言うまでもなく、この時代の家庭は、長男を大切にする慣わしがある。それどころか、女は学校も義務教育を終えると、後は時期が来ると嫁に出す。それが当たり前であった。
 しばらくしてから、友行の生真面目な手紙を思い出した。面白半分で母へ見せると、母は、
「私は、こげな字を書く人が好き」 
 と強く言ったのは意外であった。決して軽率ではない母が、手紙を見ただけで気に入ってしまった。

 前にも書いたが「円苔」の客層は、いよいよはっきり。会社の帰りの、ちょっと一杯派と、他の店へ行く前の下拵え派、どちらも時間的には早めに入ってくる。なので「円苔」は、だんだん早く開店し、閉めるのも早くなってきた。
 夕方の六時頃開けて、夜は十時には閉めるようになった。普通、呑み屋といえば、八時頃から夜明けの三時くらいまでである。早く「円苔」が閉められるようになると、客のほうも更に慌てて入ってくるようになってきた。一日四時間の営業である。変な呑み屋ではあるが、売り上げは下らなかった。

 ある日、若い婦人が、何か思いつめて店に入ってきた。
「ちょっと、ママさん、表へ出て頂けませんでしょうか」
 肩のあたりが寂しげである。不審に思いながら、外へ出た。彼女は表の入口で、しょんぼりと立っている。
「私の主人の帰りが、いつもあんまり遅いので……」  
 客のYさんの奥さんだと分かった。あのYさんなら、きっと向かいのカラオケバーへ流れて行っているなと想像できた。それを彼女へ伝えてやった。奥さんは心から安心して言った。
「どうか、私がここへ来たこと、主人には言わないでもらえますか……」
 それから一ヵ月後、今度は人相の険しい、痩せた婦人が入って来た。窓際に座り、私を睨んでいる。聞けばご主人は、毎晩遅く帰ってきて、
「『円苔』で飲んでいた」というそうだ(みんな「円苔」をカムフラージュにしている)。