「『円苔』は、早く閉めます。この店ではありません」
と言うと、聞く耳持たずの顔。こんな狭い呑み屋に、一人の陰気な客が「でんっ」と場所を取り、皆を刺すように見ている。客たちは、この場違いそうな女を見て、事情は大体察しはついているらしい。まるで自分たちが叱られている子供のように、心持ちうつむいて、酒を口へ持っていっている。二時間近くもその調子で、この女に座り込まれると、店が丸ごと疲れてしまった。
奥さんたちに心配をかけている二人の内のYさんは、尺八が趣味である。彼が、こんなことを言っていたのを思い出す。
「私は、土、日曜は山に入るんです。尺八を作るために、竹を切りにです。千本に一本、まともなものが作れれば上出来なんです」
と話しているYさんは、心なしか背筋までが、しゃんとしていた。まだ若いYさんは、会社で目標に向かって純粋に仕事をしていた。しかし組織の中では、それが通らないことに苦しんでいるように見受けられた。
もう一人、Kさんの方は、背の高い落ち着いた面持ちで、人柄が滲み出ている。
今は支払いもすべて「カード」の時代、そのカードの件で特命を受けて、彼はアメリカの本社から、このブラジルへ来ている。それがうまくいっていないのを、ちらりと話していた。どちらの男も、カラオケで夜遊びしたり、女たちと騒いで家に帰らないレベルではない。家では泣けない男たちなのだ……
さて、あの友行も、店が閉まる前には入ってきて、私が近くのアパートへ帰る時、送ってくれるようになっていた。この日の街も、いつもの夜のように行き交う車も人々も、すっかり少なくなっている。並木のうす暗い緑が、夜の風に当たり、物憂げにほんの少しだけ揺れている。
友行は、静かに話しかけて歩いている。このおとなしい人は、私にとって疲れることはない。が、ただそれだけである。アパートの入口まで到着した時である。
「じゃあ、さようなら。ありがとう」
と私が言うと、友行は、入口の壁へ私をそっと押し付けるようにして抱き、優しく唇を重ねてきた。驚いた。
ずっと先になって、この時の事を、彼はこう語った。
「何かしらあの日のお前が、可哀想でたまらなく見えたので……」
この日を境に、友行はもっと近づいてきた。しかし私の心がそれ以上深くはならなかった。彼と運命を共にしていくというような、強いものを感じていないからである。
友 行 と の 結 婚
意外なのは、父が彼をよく知っていて、友行を先生と呼んでいたらしい。友行も父も碁で知り合っていた。あの気難しい父が、友行のことを先生と呼んでいたとは……彼は五段であった。そのうちどうやら母から、友行のくれたあの手紙の件を、父は聞いたらしい。父が割り込んで来た!
「友行と早く結婚しろ! 女がいつまでも一人でいるのはみっともない!」
ということは、父は友行を気に入っているのだ。父の強引さは全く変わっていない。私はこの「みっともない!」という父の言葉が胸に刺さった。