この下宿の下見に来たM商社の若い二人、浮かぬ顔で沈んでいる。理由は、場所と下宿は気に入った。が、会社の上司も一緒に入るというのだ。さんざ気を使って、帰ってもその下宿に上司がいる。これは辛いのだが、その上司を入れる下宿が見つからないと言う。
私には何となく分かる。結局、上司の下宿は見つからず、五名全部が入ってきた。私までが緊張した。更に三つの商社から、それぞれ一名づつ入って、室はみな塞がった。ついでに私の末娘、琴子も引き取り、賑やかになった。琴子は十四歳になっていて、全く自然に、下宿人たちと仲良くなっていた。
おまけに気になっていた上司というのが、中肉中背で穏やかな、好々爺といった感じである。合計八名の下宿人、夕食の時間はみなと相談し、同時に食事するよう決めさせて貰った。高級下宿というのは、この辺りには他に二軒はあるらしい。聞くところによると、食事の用意は殆ど必要がないという。下宿人たちは、会社の帰りには飲み食いして帰ってくるので、たまに茶漬けを頼まれることぐらいだそうである。なので大変楽なものらしい。
初日はみな、口数も多くはなく、夕食が済むと、それぞれの室に引き上げて行った。二日目、何かみな入ってくる姿に力が入っている。そして三日目あたりから、それぞれの商社マンたちは和んできた。まあそれは普通のことだろうと思った。やがて例の五人組M商社マンたちは、がやがやと雑談を交わし、ニコニコしながらエレベーターで上がって来るようになった。
たまに少し時間が早過ぎて、他の商社マンが一人ポツンと大テーブルの端に座って待っている……そんな時は煮物の一切れを箸に突き刺して、熱々のものを持って行く。初めはそれを見て身構えたりしていた者も、軽やかに心持ち嬉しそうに、手を出してくれるようになる……
そうこうするうち、わいわいと喋りながら、みな楽しそうに食堂へ入って来るようになった。ある日など、隣に座っている上司の大皿に、ビフテキの残っているのを見た部下は、自分のを平らげて、持っている箸をそのビフテキに突き刺した。
「これ食いますか! Uさん!」「食うぞ!」
といって上司は、自分の箸で取られないようにビフテキを押さえる。
「ビフテキの脂身を残す人の気が知れません! あれが一番旨いのに……」と部下。
「奥さん! S君には脂身だけをやって下さい!」と上司。
毎日、優等生の家庭のように、まずは時間通りに下宿に帰って、食事を済ませてから出かけている。こうなると、こちらも今日は何を作って喜ばせようかと、献立に力が入る。
ある日、今日はこの献立、みんなに気に入りそう、早く知らせたい! とうとう私は、M商社へ電話した。さすが気が咎める。でも知らせたい……
「ハイ、○○社です」
N君の事務的な、改まった声が聞こえた。
「下宿のおばさんよ。あのね、今晩のメニューをお知らせするね!」
「オイ! 書け」
しゃんっ! とした声に変わって、仲間へメモを頼んでいる。