移民研究家による表現では沖縄の出身者を二つに分け、一つは移民となった人たちで「沖縄系移民」、もう一つは沖縄から本土に移住し、沖縄以外の土地で住んでいる人たちで「沖縄出身者」と呼ぶ。アメリカ軍政府の統治下にあった1945年から1972年までの27年間、英語では、「オキナワ」の語尾にーanを付けて「オキナワン」「オキナワン・ピープル」と呼ばれていた。
研究者によってもその呼称は様々なものがあるが、「第6回世界のウチナーンチュ大会」を報道した沖縄2大新聞、『沖縄タイムス』と『琉球新報』では新たな「沖縄県系人」という言葉が使われていた。「県系人」というのは耳新たな感じがするが、今日世界的に広がった沖縄系移民を、「ウチナーンチュ」という沖縄方言をもって表しているのが最もふさわしいように感じる。
去年10月26日から30日まで、沖縄本島那覇市において「第6回世界のウチナーンチュ大会」が盛大に開催され、『沖縄タイムス』では26日から11月1日号までほぼ全紙面を使ってその詳細を掲載している。参加者は海外20カ国・2地域から64団体、約5200人の県系人、国内の参加者合わせて約6000人が前夜祭の26日夜、各国の民族衣装を着て国際通りをパレードした。沿道には海外からの「里帰り」を歓迎する県民から喜びの掛け声、指笛が飛び交い、ブラジルのサンバ、ハワイのフラダンスがパレードを一層華やかにしたようだ。
それに先立って、24日号では、空手の「形」の集団演武の人数でギネス世界新記録を目指す「空手の日本記念演武祭」が、23日、同じく国際通りで実行され、3973人が成功して公式新記録に認定された、と報道している。
その数は、2013年8月にインドで記録した809人を大幅に上回り、空手の発祥地・沖縄を内外にアピールすることに成功したという。30日の閉会式には、1万5395人が参加して今大会を振り返り、別れを惜しだ。翁長雄志知事は、その日を「世界のウチナーンチュの日」と制定することを宣言してグランド・フィナーレで幕を閉じたとある。
大会が終了した約一カ月後、「沖縄県出身者」の私は、ほぼ10年ぶりに故郷を再訪した。
そしてそこで目にした沖縄の変わり様は衝撃的であり、今日的経済社会的要請に合わせなければならない事情があるとはいえ、その変わりように唖然とした。深いため息と共に、町が変わり、世代が変わることで、あのゆるやかな、人情味あふれた文化も消えゆくのであろうかと考えさせられた。
その変化は、特に那覇市国際通り周辺、亀甲墓(門中墓・一族の墓)の激減、嘉手納基地正面ゲートに立つ「道の駅かでな」、国内のみならずアジアからの観光客等、新たな客層への対応のために北中部に新設された巨大ショッピングモール、沖縄市(コザ)の老舗ショッピングセンター「プラザハウス」などの著しい変化などである。
▼沖縄の風土
沖縄は「琉球弧」と呼ばれる島々の中の一つである。「琉球弧」とは、九州南西から台湾まで弓状に伸びている島々のことで、地理学上、北緯27度線を境にして薩南諸島と琉球列島に分かれるが、300余あるこれらの島々を琉球弧と呼ぶ。
この琉球弧は、奄美大島、沖縄、宮古、八重山のグループに分かれ、その中でも沖縄本島が最大で、沖縄県に属する島は公表、約150あり、その中で有人島は61ヵ所である。
沖縄には、古くから大陸と日本の歴史が交錯し、北からヤマトの文化、南からメラネシア文化、そして中国、朝鮮からの文化の流れを受けて、独特の文化が馥郁として育まれた。
島は一年を通して心地よい黒潮の海風が渡り、四方をサンゴ礁の海に囲まれている。黒潮は潮の流れが速いため海水が濁らない。サンゴ礁の透き通った海の中を色鮮やかな熱帯魚が泳ぎ、砕けたサンゴや海洋生物の殻(有孔虫)が蓄積してできた白い砂浜がいつも太陽の光をうけて煌いている。
「沖縄出身者」の中には、その白い砂浜で、いまでは有名な沖縄土産となった「星砂」を見つけた時の喜びを忘れない人も数多くいるであろう。
沖縄出身の者にとっても、あるいは観光で訪れた人々にとっても、島々を囲むコバルトブルーの碧海は、照るにつけ、荒れるにつけ、見る人の心に思いを馳せ、虜にするのである。このような沖縄の風土から刷り込まれて育まれ形成された「沖縄人」の歴史は以外に古い。
沖縄本島には、10~12世紀にグスク(城)時代が始まり、尚巴志(しょう・はし)王が1429年に第一王朝を成立させ、1609年に薩摩の島津氏が侵入、1879年(明治12年)、明治政府による琉球処分(廃藩置県)によって沖縄県が設置されるまでの約五〇〇年の長きにわたり琉球王朝が君臨した。
この間に、史書や外交文書の編纂、漆器や陶芸、染色などの美術工芸、琉舞や組踊りなどの伝統芸能、宮廷料理など、色鮮やかな沖縄の伝統文化が生まれ、磨かれ、今日に継承されている。
沖縄タイムス10月31日号には、国際通りで琉球王朝時代の様子が再現された「琉球王朝絵巻行列」について、《国王や王妃が乗った「御轎(ウチュー・御輿)と、中国皇帝の使者・冊封使など約700人が列を成し、見物客約4万2千人を楽しませた。行列は琉球王国の高官が楽隊を率いて冊封使を首里城まで先導した史実を元に、現代風にアレンジしたもので、「世界のウチナーンチュ大会」に参加した人人をも喜ばせた》と報道している。
沖縄にはその昔、琉球王国があり、王国ならではの舞踊の立ち居振る舞いや衣装は他所とは際立って印象深い。
その後の沖縄の運命は、日本の近代的帝国主義の下で艱難の歴史をくぐり、亜熱帯の陽気な島民の心に複雑な陰を落としたといわれている。太平洋戦争末期の1945年3月26日から6月23日の3カ月間に渡って、日本軍と米軍の間で繰り広げられた沖縄戦の激しさは「ありったけの地獄を一つにまとめた戦争」あるいは「鉄の暴風」と表現されている。
▼消えつつあるモノ
沖縄の文化の特徴として、まず挙げられるのが海に孤立する「島」ならではの血族共同体であり、その共同体の要となるのは祖先崇拝である。豊穣の海は島民に恵みをもたらすと同時に、いったん荒れると住民を孤立させる。
「台風の通り道」といわれる台風被害や干ばつ被害などの天災を頻繁に受けて閉ざされた島民は、「島」的結束のために強い血族共同体を生んだ。何らかの集まりに行くとたいてい共通の友人に出会うことから、「いちゃりば ちょーでー(知り合った同士の元をたどれば兄弟だった、一度知り合ったらそのあとは兄弟のように親しくなる)」という意味のこの言葉の背景には深刻な琉球弧の風土的条件があった。
一族の結束を示す象徴的な場所が亀甲墓、すなわち一族の墓であった。
今日、日本全体が高齢化による社会の物理的変化で、「町は変わる、町を変える」という現象が各地で起きているが、「国内の夏の魅力的な観光地・沖縄」もその一つである。
島である沖縄に時間とお金をかけて訪れる観光客を満足させなければならない。期待と強い要求を持ってやってくる観光客のために、那覇市内は高層ホテルや巨大な免税売店、大手のショッピングモールが立ち並らぶ。
そのため、その土地にあった亀甲墓(門中墓、血縁一族のお骨が収められる墓)までも移転を余儀なくされる。移転に関して様々な小競り合いも頻発していると聞いた。
今では伝統的な風葬から火葬に替わり、家族形態も変って、大きな墓は要らないという現代の風潮に合わせて、小高い丘に、小さな亀甲墓や、本土の四角柱形の石の墓が並んだ集団墓地に代わっている。(「亀甲墓」については、ウィキペディアなどでその詳細が示されている)
沖縄県出身者にとって、清明祭(シーミーサイ)や旧盆などでは、その墓の前に大勢の親族が集まって、泡盛やご馳走の詰まった重箱を広げる習慣を知っているであろう。その周辺には鬱蒼とした木立があり、大きなガジュマルがあった。子供ごころには、そういう場所で聞くオバアのユウレイ話、キジムナー、ケンムン(妖怪)の話は一番興味をそそられ、いまだに忘れられない。
沖縄の典型的家屋の屋根は赤い粘土瓦(平たい女瓦と丸い男瓦を交互に並べる)を白い漆喰で補強し、その屋根に一対の魔よけのシーサーの焼き物がおかれている。
そういった家屋も那覇市内では珍しく、高層マンションに取って代わられた。今では古い沖縄を見ることができる施設として、本島北部本部町にある海洋博公園内にある沖縄郷土村を訪ねるのが、観光客にとっても、沖縄出身者にとっても手っ取り早い方法かもしれない。
1975年に沖縄本土復帰記念事業として開催された「沖縄国際海洋博覧会」の跡地は、今日、「海洋博公園・美ら海(チャラウミ)水族館・おきなわ郷土村、おもろ植物園」が広い敷地に、観光用として設置されている。
一人勝ちしている那覇市と、その本部町を結ぶ幹線道路沿いの町は、サトウキビ畑と、米軍基地、コンクリート建ての大きな個人家屋などが並んでいるだけで実に殺風景である。
北中城村屋宜原の交差点には「ライカム」という表示がある。それは、琉球軍司令部(Ryukyu・command)の略語であるが、現在その近くに本土の大手ショッピングモールが建設されている。7万8千平米というから広大であるが、マチヤグァー(雑貨屋)でユンタク(おしゃべり)をする買い物に慣れている県人には、広い売り場を歩き回れないので、リピーターにはなれないのだそうである。
その交差点近くには、1950年代から米軍家族向けに建てられた老舗のショッピングセンターがある。そこには沖縄だけにしかないアメリカのファーストフード店やタトルブックストアー、洒落た衣料品、香港人が経営する上等な仕立て屋などが並び、当時の沖縄の庶民にとって、憧れのショッピングセンターであった。
その店は今でも健在であるが、驚くことに、店舗の商品内容はほとんど観光客、それもアジア系の客目当ての品一辺倒である。
沖縄・那覇市の最も有名な観光スポットといえば、「第一牧志公設市場」であろう。公設市場の一階には、サングラスをかけさせられた豚の丸ごと顔の皮(観光客はこれを被って記念撮影する)豚の足はテビチ用に、内臓などのあらゆる精肉が並ぶ。
県魚のグルクンをはじめ、大きな伊勢海老、貝類、ハリセンボン、熱帯魚系の色鮮やかな魚、マグロの赤身の塊などなど。乾物類のコーナーには、日本一の消費量を摂るといわれる北海道昆布や近海で採れる豊富な海藻類、ウミヘビの干物など。沖縄ソバ、黄色、紅白のかまぼこ、熱帯の鮮やかな果物、ルートビヤーなどなど、実に豊富なものが揃っている。
市場の周辺には衣類、雑貨の店も密集しており、老朽化に伴って移転の問題も浮上しているが、実際、市場の移転というのは非常に困難な問題を含んでおり、なかなか合意点を見出して実行するのは困難だそうである。しかし、この市場が新装開店するのもそう遠くないかもしれない。
▼基地をバックに…
さらに驚いたのは、嘉手納基地正面ゲート近くに俄かに建てられた「駅の道かでな」のビルである。このドライブインが看板としているキャッチフレーズは、「極東最大の嘉手納空軍基地を見よう」である。そのビルの屋上に上がると、目の前に広大な嘉手納基地が一望できる。そして、その屋上を満員にしている人々は沖縄の人ではない。
観光客である。
頭上を轟音を立てて飛ぶ戦闘機に拍手喝采。戦闘機に向かって手を振り、悲鳴のようなにぎやかな歓声が上がる。まだか、まだかと待っているのは「オスプレイ」である。
しかし、移動時間に間に合わないという添乗員からの説明にあちらこちらから大きなブーイングが起こり、今度は基地をバックにあたふたと写真撮影が始まる。一通り写真を撮り終えた人々は、今度はビル内の土産店に駆け込みむ。
土産店に並べられた商品といえば、沖縄の名産ではなく、おもちゃや衣類、CD、雑貨などで、どれもよく売れていた。
普天間基地といえば、街中の大規模軍事基地である。常に報道されるように、基地はフェンスで仕切られただけの人口密集地に隣り合わせている。フェンス越しに基地を眺めている最中にも軍用機のけたたましい爆音が続く。ここは「世界一危険な基地」(『知恵蔵』)なのである。
基地で働く住民が密集して生活地域を広げたという現状に至った側面も度々説明されるが、その場に臨むと実に複雑な気持ちになる。
つまり、米軍基地の問題は沖縄だけの問題ではない。沖縄は県であって、国ではない。他の県にも基地負担をという話が、かつて具体的に俎上に上がったことがあったであろうか。アメリカ政府と日本政府は国同士の折衝が行われているはずにもかかわらず、いつも基地問題は沖縄だけの問題のように報道される。基地反対派として運動する人人や、基地による受益者などのことなど、沖縄本島を取り巻く自然の美しさと比較して、沖縄の抱える基地問題は実に疑問の多い、不可解で不愉快で醜い現実問題である。
「日本人は善悪に対する詰めが甘い」いう言葉を読んだことがある。なんでも理詰めで迫り、白黒の決着を付けたがるという西洋人の思考法が、昨今、日本社会でも多くなったと思う。
沖縄といえば「テーゲー(良い加減)」に事を収めることがうまいという。それは働き者のオバアの得意技でもあるらしい。たとえば、「なんで時間を守らないの」と怒ると、答えは「なんでかね」とくる。「相手に失礼でしょう」、答え「だからよ…」。この「だからよー、なんでかね〜」とはなんと意味不明な返事ではないか。
しかし、これは「時間に遅れたのは自分のせいではない、貴方のせいでもない、だから貴方が遅れても責めないよといったニュアンス」だという。
深刻な事態が起きても、「だからよー、だろうね」と言ってのける。そこで話しを打ち止めにする。これから先に話を続けては気まずいことになる。だから、「そういうわけさー」となる。どういう訳かは不明で良い。それ以上突っ込まない。
赤と黒(オバアにとっては白黒の意)をはっきりさせない。まったくもって人間関係の潤滑油的なやり取りである。永年の苦労を切り抜け 、島を、家を守り抜いてきた逞しい人人の人生哲学であろう。
このようなテーゲーさは、沖縄発展の妨げになると批判されてきたのも事実である。
しかし、急速に変化する沖縄の外観に伴って、島を訪れる人々の要請に合わせ、そのうち内面の独特な悠長さも変化を迫られることになるのだろうか。