坂本竜馬、山岡鉄舟、西郷隆盛、稲垣鉞子など、明治の文明開化に全身全霊でぶつかって、それぞれの理想実現に邁進した英雄を取り上げており、日本語では、編集部で、読み易いように要点を配慮している。
それらの、ポルトガル語訳も分かり易く書かれており、100年以上も遅れていた日本の国を如何にして発展させ外国に侵入されないように護ってきたかを理解できるように工夫されている。
私も坂本竜馬には興味を持っていたので、数年前、日本に行ったとき、竜馬の足跡を訪ねて歩いたことがあった。特に興味があったのが亀山社中で、内部には竜馬及びその仲間の遺品があった記憶がある。
私は水野龍に関しては毀誉褒貶が多いため、コメントするつもりはない。
同書の最初の方に、「明治維新の足跡をブラジルで活かせないだろうか」と書いてあるので、その点について、本の趣旨から外れると思うが、私見を書いて見る。
日本は千年以上も昔から、神道、仏教、儒学等を通じて、人間の精神面を鍛錬する道を知っており、時代が必要とする人物を輩出してきている。例えば、モンゴルが攻込んできたのを撃退した北条時宗のごとく、または内乱と言える楠正成が守った天皇家の様に、探せば類似した話が出てくる。
ブラジルの有識者は、国が発展するためには、倫理並びに道徳心の必要性を強調しており、PT政権時代にはそれが崩壊したことを嘆いている。最近は、民衆が政治家を監視するようになり、以前と違って、公共資金の悪用を承認しなくなった。それが証拠に、政治家は飛行場などや街路でもマークされ悪口を言われるようになってきた。
この新しい文化は、消極的姿勢からの眼覚めと捉えていることに注意しなければいけないし、ペトロブラス汚職からの一連の中のセルジオ・モロ判事が提起した影響で目覚めたグループが増加したと見られている。
セルジオ・モロ判事が定めた罰則は、上部地方裁判所(ポルト・アレグレ)で、71パーセント支持されているため、弁護士たちが必死になって上記判事を降ろそうと努力していることが紙上で発表されている。
これらの影響は大きく、他の判事達も影響を受け、以前では考えられないリオ州元知事、市長等を検挙するようになった。
問題は、この方向がまだ官吏一般にまで浸透していないので、公私の別をはっきりと区別しているわけでない。「政府機関内には、ポルトガル王室時代からの習慣として、王室の友人には特権を与えて公共資源を私的に流用していた」とブラジリア大学でブラジルの汚職を研究しているリカルド・カルダス教授は指摘している。
その王室時代の悪弊がいまだに継続していることは、最近起きた上院議員議長の件で、最高裁の判決では上院議長の席を予備的に取り上げる予定であったが、上院全体の反対でボツにされた流れの出来事からも伺える。
ブラジルの著名な歴史家、セルジオ・ブアルケ・デ・オランダの本で『ライゼス・ド・ブラジル』(ブラジルの根本)では、ブラジル国の法律は歴史的に友人達に恩恵を齎すために作成されると喝破している。
上記のレナン上院議長の件は「地位の占有」と特徴つけられている。
現世代の挑戦は、公共管理職には実力と誠実さで管理できる人に任せることである。
公共管理人は、行動に疑問を持たれたら、職を辞して弁護するべきだ。だが、元大統領ジウマ・ロウセフ基準では、それが反対で、告発されたら、その人に対し得権を与えて、法令に邪魔されずに弁護できるようにしていた。これに該当したのがルーラの件である。
倫理の回復を図るには、社会全体の監視と動員が必要であると識者は言っている。連邦議会で汚職防止10項目の条令を議会で議論したときのごとく、外部よりの猛反発が起こり、変更は棚上げされた。一般市民が倫理道徳を身に就け、自分たちの代表者の行動を常に監視することが出来るまで、まだ時が必要である。
題名である「明治維新の足跡をブラジルで生かせないか」と言うことであるが、これは昔からの伝統が違うので、日本の伝統を当てはめることも、またはブラジルの教育の一端に入れることも無理があると思われる。
上記に述べてきたように、ブラジルの知識人がみな王制時代の悪習慣を引きずってきておるわけではないことは理解でき、PT時代を除けば、ブラジルの基礎教育には、宗教科目、社会道徳科目等があったわけで、現状に批判的な民衆が数多くいることも事実でもある。
また最近のニュースでは、マット・グロッソ州では、昨年だけの結果だが、予算を組み、それを完全に実現できた例もでているので、将来を全面的に悲観することはないと思う。
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