もう一匹のタロの方は、大人しくて、父が叩くのを見たことがない。あの大きなタロは、一日中、短い鎖につながれて、小屋の周りに立ち、退屈そうに眺めている。今まで、誰一人散歩にも連れ出してやっていないのは想像がつく……みんな自分の生きるので精いっぱいだから。ある日、タロの首の鎖もはずれ、門の小さい方の扉が、うっかり開いていた。
タロは飛び出した。父はそれを見た。だが黙っている……タロにとってこの日は天国、どこかへ消え去って、影も形も見えなくなった。が、夕方日が暮れると帰って来た。あの大きな図体を、小さな門にくっつけてこちらを見ている。
「コイン!」と哀れな声で、門を開けてくれと催促している。
突然、父がやって来た!
「開けてやるな!」
と声を殺して私に耳打ちした。そんなお仕置きが、タロに分かるはずもない……父も大分子供になってきた。
ここへ来て一年もしたころ、街の知り合いから、ある話が舞い込んだ。その人が言うには「ある資本家が、サンパウロで一番大きな、日本食堂を開ける。その経営を頼みたい」というものであった。少し心が動いたが、丁重に断った。おそらく、過去の「円苔」や「ふるさと」における実績を買ってくれたのだと思える。断った理由は、それほど大きな店を開くのに、私へ全て経営を、任せてもらえるわけがない。面白くない。
もう一つは、自分でも「おや!」と思った。
父から逃げる気が無くなっている……そう言えばあのX印のカレンダー、三十日くらいで印はつけてない。今日まで、あのことはすっかり忘れてしまっていた。いったい以前の私は、どこへ行ったのか……月日は過ぎて行った――
それにしても毎日毎日、父と碁の相手をしなければならない。後は家事をこなすだけで、楽な生活ではあった。
たまに父のために、DVDをリベルダーデまで出向いて、借りてくる。しかし私には、土曜も日曜も自由時間というものがない。絶対に外の碁会所へも行かせてくれない。DVDを借りて来る日も、三十分も予定より遅れて帰ると、機嫌が悪くなった。又、生活費は出してくれるが、家計簿をつけて毎日、父に見せるよう言われた。おまけに娘の住んでいた、あのアパート、その家賃も父は取り上げた。妹が言うように、女中以下となっている。しかし、この家に入る前にしていた覚悟ほど横暴な父ではなくなっている。父は変わった。
娘の琴子は年頃で、よく笑うようになった。ある日、父がうるさがって、
「笑うな!」と怒鳴った。娘に向かって、取って食うような目を剥いている……その凄みのある声に、一瞬私は「はっ!」と釘づけになり、この二人を見守った……しんとなった。この時、父の顔を見ていた琴子が、
「ぷっ!」と吹き出した。その父の形相が、あまりにも可笑しいといって笑いころげた。
これには父も拍子抜けして、怒りが引っ込んでしまったらしい。娘が、この家にいるというのは、父にとり大きな慰めになっているらしいことを、この時気付いた。父は結構元気になり、たまに屋根に登ったりした。修理のためとはいえ、私ははらはらした。