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道のない道=村上尚子=(73)

「尚子、ちょっとそこへ座れ」
 ある日、父が碁を並べながら私を呼んだ。
「オレの相手をして打ってみろ」
 いつも家の中では、碁を打つ相手が居ない父。ウムを言わせない口調で命令した。
「ハイ……」
 あの頃の私は三十代であった。『人生の戦いの真っ最中』、いいかげん自分の人生に、眉間のしわを寄せてあがいていたのに、遊びまで苦しむことはない。碁の何たるかも、分からない私は困った。いいかげんな場所へ、石をポンと置いてみた。いくら遊び相手がいないからといっても、全くの素人の私に、白羽の矢が当たるとはー で、私の打った石に対して父は「うーん……」とうなっている。父は、かなり考え込んで、やおら石を置く。
 私がすぐに、もう一手打つ。すると又「うーん……」と考え込む。そのどこが「うーん」なのか?
 そして次の日からというもの、いきなり定石とやらを教えこもうとする。普通の人が碁を打ち始めて、十年くらいしても知らないような、定石をだ。たまったものではない! 嫌だ。ということで、それから十年くらい見向きもしなかった。ところが四十代に入ってから、あの三度目の結婚相手の友行が、ある日のこと、私に言った。
『尚子、碁を教えてやろうか』
 彼は酒の酔いがまわっていた。その友行が女のように細い体を揺らしながら、心地よさそうに優しい声を出す。簡単明瞭に、まるで歌でも口ずさんでいるような口調で、説明をした。教え方が実にうまい! たったの五分間であった。
「ああ、解った」
『なあーんだ、簡単じゃあない!』
 私は、その明くる日から、碁会所へ行って入会したのだ。
「ふふ……」なんと言うことはない。何にも解っちゃあいないのだ。解ってないということが、分かっていない私は、毎日楽しく碁会所へ通った。あとで悟ったのだが、碁は教え込むより楽しいものということさえ分かれば、後は自然に強くなるのだ。

 ところで彼は、口から食べることが出来なくなっている。それが哀れで、私は父の前では物を口にしないことにした。ある昼どき、炊事場の中で、隠れるようにして立って食べていた。白いご飯に、黄色いたくわんを「こりっ、こりっ」といわせていた。こんなものでも最近まともに食べていないので、私には美味しい!
 この時、足音もなく父が入ってきた。私の側に寄ってきて、淋しそうなそのくせ悪戯っぽい顔で、「うまいか」と声の出ない声で、微笑んだ。どんなに彼はこの白いご飯を頬張り、たくわんを「ぽり、ぽり」といわせて食べたいだろうか……私はたったこれだけの食事が、どれほど幸せなことか、この時ばかりは身に沁みて分かった……父に何か一口食べさせてやりたい……
 次の日である。私は父に食べさせられる物を思いついた。ひらめいたのは「やきとり!」
 フランゴ(鶏)をよくすり潰して、親指大に丸めた。それを三個、こくのあるタレを付けて焼いた。固くならないようふんわりと仕上げてみた。タレがいかにも食欲をそそるように、黒光りしている。飾りに串刺しにした。真っ白い皿の上に、小さな串焼きが乗っている……、何も知らない父を呼んで、テーブルの上にその皿を置いてやった。彼にとり、半月も口にしていなかった食事、やせ衰えた父は、細い指でその串をつまみ、そっと一個口に入れた。