新天地へ 光あれ
足柄の山野に狩りし、足柄の地酒をこよなく愛した福沢諭吉は、箱根湯本の福住旅館に静養し、報徳の教えゆったりと全身から吸収していた。
観光の地・箱根は、訪れる人誰にも天地玄妙なるを解読していると言えよう。
先人の治山治水事業の精華として、相模湾の幸、清流の鮎、丹沢山系の自然薯までも、花と湯治の里に押し寄せ、旅人は英気を養い、魂の解放を試みる。
明治の出版事業先駆者・福沢諭吉は「理想の読書人」二宮金次郎の足跡と農聖二宮尊徳の思想の軌跡に、箱根で巡り逢うことこそ、究極の観光に違いない。
慶応4年(1868年)福沢諭吉はささやかな義塾を江戸に建学したものの、第1期生は、武藤山治(むとう・さんじ)と平賀敏(ひらが・さとし)の2名であった。
後に鐘紡(現在:カネボウ株式会社)の社長となる武藤山治は、関西財界の雄・平賀敏と共にブラジル国アマゾニアの農業開発に心血を注ぐ運命となった。
昭和3年(1928年)田中義一首相(たなか・ぎいち)兼外相と渋沢英一の音頭取りで鐘紡財閥を主力とする南米拓殖株式会社(南拓 なんたく)が設立される。
事前調査を重ねた移住地には、移民の配耕に先立ち、学校、病院、農事試験場も建設し、国家事業として準備万端のはずが、風土病の蔓延と経営不振により壊滅寸前に陥ってしまった。
自らもアマゾニアに渡り陣頭指揮を希望する平賀敏であったが、すでに高齢にして病床にあり、12人兄弟の四男 平賀連吉に白羽の矢が立つ。
本多静六博士の偉業で名高い東京帝国大学 農学部に林学を修め、農務省大阪営林局に奉職していた練吉は、父の生涯事業の窮状打破を託されるのだ。
父を見送り、喪が明けて、すぐに結婚、出航へとためらいは全く無い。父の贈る言葉「向こうへ行ったら自分の事はよい。他人のために働け」を胸に、平賀練吉29歳(ひらが・れんきち)、妻・清子24歳。
歓びの山 モンテ・アレグレ
昭和6年(1931年)、アマゾン大河の河口より800キロほど遡った原生林地帯のモンテ・アレグレ郡 (Monte Alegre)に40万ヘクタールの南米拓殖直営移住地が設定され、若き夫婦と開拓団員47名は入植する。練吉は農業組合活動と農事試験場の基礎づくりに手腕を発揮する。
アマゾン河流域は、雨季乾季の増水と減水の周期リズムに支配され、今なお人々の生活と産業を完全に支配している。
雨季に流れを激変する支流も、その支流、そのまた支流も縦横無尽、自由奔放に原生林地帯を走り回る。乾季に出現する幾千の川中島は、興亡を繰り返し、船舶の運航には、大変な熟練を要するものである。
モンテ・アレグレ移住地は、大河本流に臨む丘陵にあり、対岸サンタレンまで50キロの間の川中島の興亡は雄大にして、風光は明媚である。都市文化との隔絶により、住人は穏やか気質を留め結束し、凶悪犯罪も無い。
そして素朴な住人たちの日本人開拓者への敬慕の情は、凄まじいの一言。
かつての南拓試験場跡地の周辺は、高級住宅地に変貌し、小さな飛行場を隣接する緑豊かな林苑に、日本ブラジル文化会館は、ひっそりと佇む。
職員室に鎮座するブロンズの二宮金次郎像は、大河の未来を見つめている。
土の覇者
モンテ・アレグレ移住地は、8年間の農事研究と試行錯誤から現地に適合した牧畜農業に活路を見出し、経済的自立のめどが立ち始める。
その頃、同じく南拓経営の主力アカラ移住地(Acara)の窮状打破を決意する。
事業成果は全て同志団員に譲り、完全に無に還り、大河を下るのだった。
河口の都ベレン(Belem)より150キロ内陸に向かうところの高台地(terra firme テラフィルメ)、東京ー名古屋ほどの距離に道は無く、大蛇行を繰り返す一本の原始河川に辛うじて命脈を繋ぐアカラ移住地。今は一大発展して、トメアス (Tome-Acu) と称されている。
60万ヘクタールの入植地では、マラリアと黒水病が猖獗し、農作物の病壊滅により極度の貧困にあえぎ、死者、退耕者を続出させていた。
平賀練吉の救援は、当時の南拓の移住地監督役員にしてブラジル社交界の名士コンデ・コマ(Conde Koma)こと前田光世 (まえだ・みつよ)の要請に応えての決断である。
日焼けした平賀「それは父が私に託した事業である」として、淡々と語る。
絶望のどん底に沈む日本人移住者にとって若き指導者夫婦の着任は、大きな光明であり、新たな希望と団結を呼び覚ました。
平賀練吉の農業技術と世界情勢に関する知識は、農業組合の基盤を作り上げ、アマゾニア空前の定住農業実現へと繋がるのであった。
いつも美しく明るい清子夫人の快活な笑いと、豊かな教養による女子教育への貢献は計り知れないが、ご本人は微笑むだけで、手柄話は何も語らない。
ちなみにコンデ・コマは、ブラジリアン柔術 (葡語: jiu-jitsu brasileiro)の祖として有名になっているが、アマゾニアの新天地に、日本人の可能性を追求した実業家である。
知性溢れる早稲田の柔侠は、アマゾニアの土となり、熱帯の都の発展の歴史にその名を刻む。晩年は持病のリュウマチとの闘いに明け暮れ、平賀清子夫人は献身的な介護に勤しまれた。(つづく)