店 じ ま い
七十七歳になった私、もう力仕事は無理となり、今から二年半ほど前に、身を引くことにした。
この頃、このアパートの二階で、月に一回、文章の勉強会が行なわれていることを知った。「たちばなの会」というこのサークルは、二十名ぐらいのメンバーである。この会に、私は関心を持ち、ある日見学をさせてもらった。
第一印象は、ほとんど高齢者ということであった。私も同じである。もう日本人の若者は消えてしまった。これが、今の移民の姿である。怖いもの知らずの私は、何とこの会に入ったのである。十九歳で日本を出て以来、本を開いたのは二十数冊か……漢字も知らない。そんな私が、どうしてもこの会に惹かれた……
学歴のないらしい人も、この会にはいる。しかしそんな人も、学歴のある人以上の教養をもっているのを知った時、学校を出ていないでは通らないことが判ってきた。初めは、私の漢字の間違い方を見て、吹き出す者もいた。みんなが、先ず漢字を教えてくれて、まるで子供の手を取るようにして、大切な会の時間を、私のために浪費し、励ましてくれた。
こうしてやっと訪れた「私の平和……」その平和の中で、せっせと文章を書いていた、ある日のことである。
「今日は泊まって行くよ」
とリベロンプレットから、長女のひろ子がやって来た。ゆっくりするというのは、始めてのことである。その上、ひろ子は、思いつめた表情をして、
「今日は、ママイに話があって来たのよ」
と言い、本題に入ってきた。
「私は、この五十年間、ママイの目をまともに見たことは一度もなかった……」
わたしはキョトンとした。
聞くところによると、ひろ子は「鬱病」にかかっているらしく、最近は仕事(市の経営している孤児院)も出来なくなってしまっているとのこと。精神科の医師が言うには「貴女は、そのママイに対する思いを、全部彼女へ打ち明けなさい。これしか今の貴女を治す方法はありません!」と、云われてきたとのこと。
更にその女医さんは「ひょっとしたら、このことで親娘の関係が終わってしまう危険もあります」と、強く注意したそうである。
二回目の、一郎との結婚の時は、ひろ子は三歳であった。私は、あの家庭の空気を読み、腹違いの子への気遣いで、実の子のひろ子に表面上、冷たくせざるを得なかった。あの七年間、幼い子供が孤独に耐え続けた。その私への恨みと心の傷が癒えることなく、段々大きくなり、精神病になりつつあるということであった。私はこれを聞いて、取り返しのつかない大きな罪を犯していたことを、この時やっと知った。
何という大変なミスをしてしまっていたのか…… 同時に、私自身が、あの頃どれほど、ひろ子を抱きしめてやりたかったか……その想いが、私の体のどこに潜んでいたのかと思うほどに、怒涛のように膨れ上がったとき、私はひろ子に飛びついて、抱きしめていた。
「こんなにしたかった! こんなにしたかった!」
と私はおいおい泣いた。この小さな室全体も泣いた。ひろ子もこみ上げるように泣いた。二人でしばらく泣きあってから、娘を見た私は驚いた。抱かれて下から見上げている彼女の瞳! あの三歳の頃の瞳そのものであった!