私がこのブラジルの地に降りたのは、2015年7月1日、サンパウロは冬の最中だった。三週間のサンパウロでの研修を終え、配属先役員の方の車で任地であるスザノ市(サンパウロ州)へと向かった。
着任後すぐに、「やっと息ができる」という、何とも妙な事を思った。というのも、東京郊外の片田舎で育った私は、コンクリートに囲まれた都会というものが苦手で、東京もそういう街だった。
だから緑の茂る田舎町に立って、初めて息をした心持ちになったのだろう。今やスザノは私にとって「第二の故郷」となっている。
大学を卒業して、ベンチャー企業に勤めた後、どうしても海外での生活の夢を叶えたくなり、日本語教師養成講座の門をたたいた。
その後、縁あって、とある東京の日本語学校で日本語と日本の大学を受験するための英語を教えていた。日本ではどの仕事であっても、相手が抱える課題に対し、耳を傾けよく話をし、その要望の中で自分ができることをするということを大切にしていた。
それは「自分がしたいこと(供給)」と「望まれていること(需要)」は往々にして異なることを痛感しているからだ。幸い、これらの日本での経験が、赴任してからも活きていると思う。
着任して、実際に教壇に立ち、また様々な交流に参加させていただき、一年以上が過ぎ、多方面から様々な悩みを聞いた。そういったもののいくつかは、この「供給」と「需要」、つまり「自分」と「相手」の心のズレによっていると感じている。
つい忘れてしまいがちであるが、大切なのは「日系人」とはいえ、現在の「日本人」とは異なる要素を多分に含んでいるという事実である。日本人の血が繋がっているとか、言葉が通じるとかは関係ない。
文化そのものが違うのである。「人」として見ることである。「これくらい通じるだろう」というのは危険である。
この点において私の任地では、とにかく話をする場がある。それは、お互い「違う人間」であることを前提にしているためだ。異なる者が共に生活する際は、双方が歩み寄らねばならない。これが片方の努力にのみ頼るのであれば、それは正に片想いと同様で、問題解決においては何の進展もない。それは、この任地の人達の培った経験則なのだと思う。
こういったことは日本人同士にも言えるし、一生を誓った夫婦間でもいえることだろう。なまじ言葉が通じたり、同国民であったりすると、それが疎かになるように思える。
謙虚な気持ちで相手を尊重し、よく話を聞く。そんな大切さに気付かされた一年だった。残りの任期も発見と喜びに溢れたものにしたい。(リレーエッセイ終わり)
石森 和麿(いしもり・かずま)
【略歴】東京都出身。29歳。日系社会青年ボランティアの「日系日本語学校教師」として、スザノ日伯学園に2015年6月に派遣された。2017年6月まで。