やがて、二人で外へ買い物に出た。道を歩きながら、ひろ子がしみじみとした声で、自分へとも私へともつかず言っている。
「不思議ねえ……今なぜか昔ママイに色々してもらったことを、思い出しているよ。今まで何も思い出したことがなかったのに。例えば、六歳くらいの頃かしら、ママイが私に服を買ってくれたのを……その服はね、ブルーザ(上着)がピンク色で、スカートが白だった……ああ、どんどん思い出してきた」
私の方が思い出せないくらい、昔のことを。ひろ子のそういった変化は、女医さんの指示が成功したということになる……『良かった!』
ひろ子は、リベロン・プレットへ帰って行った。
ところが、今度は私の中に、ぽっかり穴が開いて、風がスースーと通り抜けている。
「五十年間も、私の目を見たことがない……」
青天の霹靂(へきれき)である。ひろ子という私の体の一部が、すっぽり抜けたような感覚に襲われている……勿論、私は怨むどころか、彼女へどう詫びても詫びきれない罪を犯したのだ。だが、私の中から、ひろ子が抜けてしまっている。これは一体、何なのだろう。自分の気持ちが恐ろしい…… 二カ月ほど、腑抜けのようになった私は、自分で心配になってきた。「まさか、母としての愛情が、このショックで、消えてしまったのだろうか」
自分の本心を知る方法が、ひらめいた。
「その人の本心を知りたかったら、本人をパニックの状態に置いてみる」というのを聞いたことがある……で、ある想定をした。
海の中に、私の子三人(捨てた子、里子も入れて)が、私の目の前で溺れているー
私だけが、辛うじて丸太にしがみついている。この丸太も、もう一人誰かが掴まれば、丸太ごと沈んでしまう。
この時、その三人の娘のうち、私は誰にその丸太を譲るのだろうか・・・
自分の本心を知るのは恐かった。緊張しているもうひとりの私がいる。
まず捨てた里子を想ってみた。あの娘は、もともとみんなに好かれる、優しい娘である。
間違いなく助ける。
又、身近に住んでいる、一番下の娘、琴子も言うまでもない。
最後に、あの問題のあった、ひろ子である、
なんと! 他の娘たちと同じ感情が、まったく躊躇なく出た!
「たすける!」
普段、疎遠な我が子、接触の多い子、それにも違いはあるかとも思えた。しかし、極限に追い込まれた時の本能では『自分の子供への愛情に差が無い』ことに驚いたし、安心もした。
母親というものは、こういう風に創られているものなのか。
まるで人ごとのように不思議であった。
それにしても、いくら何でも、海もない室の中で、このような迫真にみちた想定は、ふつうは出来ない。
それほど私も精神的に追いつめられていたからこそ、真剣な心の集中が出来たと思える。
結論は出た。
一番近いところで溺れている娘へ、その丸太を渡す!