戦後移民・山城勇さんの回顧録出版会を取材して「生きた歴史がここにある」と強く感じた。1943年に満州開拓青少年義勇軍に志願して大連の380部隊に派遣され、1年半で終戦を迎えた。玉音放送の直後、《上官たち数人が、部隊で飼われていた豚を、軍刀で片っ端から切り殺していく姿を目の当たりにした。良く見ると、豚は首半分切りの頭を引きずりながら、血を吹き、広場を駆け回っている。半殺し豚があちこちでぶつかり合っていた。軍人魂の悔し紛れの仕打ちとは理解するものの、あまりにも酷い感じがした》(118頁)。16歳の時だ▼大連で2年近く避難生活を続け、47年にようやく引揚げ。《故郷沖縄は厳しい地上戦で家族は全滅してしまったものとばかり思いながら、長崎佐世保に引揚げた。胸中、県民玉砕で家族全滅の沖縄に帰っても仕方ないので、北海道に行先をきめて、収容所で待機していた。その時、恩師山城幸吉先生と偶然出会い、家族の生存を知らされた。急きょ方向転換し故郷米須(こめす)に帰還しました》(挨拶)。父と弟の二人は戦死したが、他7人は九死に一生を得ており、4年ぶりに涙の再会を果たした▼米須は、現在ひめゆりの塔が建つあたりから海岸までの地区で、沖縄本島最南端に位置する。地上戦の決着地であり、最も被害の多い地区だ。山城さんによれば同地区の250家族中、全滅が62家族。人口でいえば1252人中、半分以上の648人が戦没者だった。戦死者の一人、父も「勇が満州で我が一家を継承発展させるから、我々は心置きなく散華しよう」と言っていたと母から聞いた。終戦後、米須を含む摩文仁村(まぶにそん)、真壁村、喜屋武(きやん)村が合併して、ようやく一つの村「三和村」を作った。それほど壊滅的な地上戦被害を受けた▼沖縄は米軍に占領され続け、《県民は拘束状態で軍靴に踏みにじられ、産業のない島で食糧や職業が少ない。さらに海外引き揚げ者も多く、人口の自然増は毎年2万人とあって、大きな社会問題となっていました》(挨拶)。そんな引き揚げ者の多くが再び海外を目指した。《しかも1950年に朝鮮動乱が勃発すると占領軍は、軍事基地拡張のために強制的に農地接収を至る所で行うようになった。沖縄が再び戦乱に巻き込まれはせんか、と県民は不安におののいた。そこで平和でよりよい生活を求めて海外へ海外へとの気運が再燃しました》(同)▼1954年に米国政府がボリヴィア移民を契約してコロニア・オキナワを造成して流れを作り、亜国、ブラジル、ペルーへと呼び寄せ移民が大量に渡った。つまり基地問題によって、沖縄移民の多くは追い出されるように南米に渡った。在日米軍基地の面積の7割が沖縄に集中しているという現実が、戦後の沖縄移民6175人を生んだ。これは戦後移民全体の11・5%にもあたる。ブラジルには日本の歴史のミッシングリンク(失われた絆)がある。日本から消え去ったように見えても、グローバルな視点からは繋がっている▼山城さんは沖縄文化センター理事長、県人会長などの要職を歴任してきた。座右の銘を聞くと「楔(くさび)」だという。意味が分かりづらい言葉だ。「楔のどこが人生訓なのですか?」と尋ねると、「ガタガタしている時に楔を打つとピタっとハマるでしょ。周りがガタガタしている時に、自分が楔となって安定させる。そんな人間でありたいという意味です」と聞き、膝を叩いた。確かに文化センターと県人会が分離の大騒動を起こした際、両者の融和を導く上で、山城さんら青年隊員が果たした役割は大きかったと言われる。まさに楔だ▼回顧録前書きに《世界地図からみれば、針の先ほどの小さな島・沖縄の、更にその南端の一角にある村落・米須部落から、南米大陸の広大なブラジルに移り住んだわが山城家一族》とある。父が山城さんに託した「満州で一族発展の夢」は南米で果たされた。(深)