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移民110周年に向け発進!=皇室ご訪問に高まる期待=(3)=蘇る移民50周年の記憶

総動員で準備された上塚公園運動場での50周年式典

総動員で準備された上塚公園運動場での50周年式典

 59年前の1958年6月22日、リンス飛行場には三笠宮殿下を歓迎する歓喜の声が響き渡った。押し寄せた1万人余りの群衆の中に、安永孝道さん(73、三世)はいた。
 当時12歳。「三笠宮殿下にどうしても近くでお目にかかりたくて、国旗を片手に群衆のなかを掻き分けて最前列まで走った。あの時、手を握って頂いたのが、今でも忘れられない」―。まるで昨日のことのように、鮮明に脳裏に焼き付いている。

(左から)孝道さんと和教さん

(左から)孝道さんと和教さん

 孝道さんと従兄弟の和教さん(70、三世)は、当地では知られた安永家の一族だ。
 上塚植民地入植100周年を来年に控えて、「皇室の方にご訪問して頂けるのであれば、本当にありがたい。だからこそ、貧弱な式典をしたら上塚先生が泣かれる…」と語り、「やるなら上塚公園で盛大にやってもらわなければ」と複雑な喜び方をする。心底嬉しいが、慎重さも忘れない。
 というのも、立派な式典を準備するのがどれほど大変かを、骨身にしみて経験しているからだ。「あの時は総出で準備にあたった。まあ、本当によくやったもんだよ」―。そう二人が昔話に花を咲かせるのは、上塚公園の運動場で開かれた「移民50周年」式典だ。
 リンスに降り立った三笠宮同妃両殿下は、プロミッソンには立ち寄らなかった。しかし、4千人以上が上塚公園の運動場に集まり、盛大に祝った。特設会場として横52メートル、幅32メートほどの大きな櫓が組まれた。骨組となるユーカリや竹の伐採から始まり、全てが手作業で行われた。
 「式典前夜には、暴風で被せていたシートが飛んでしまった。車のライトを点灯させて、夜中にシートの取り付け作業にあたったなあ」と孝道さんは豪快に笑う。
 それに加え、14頭分のシュラスコ、焼き饅頭は1万個が準備され、上塚街道には50周年を祝う100以上の横断幕の設置まで行われた。
 「80人ほどいた青年団が主体となって、準備には一カ月くらいはかかった」と和教さんも懐かしむ。「世話焼きで、口も出すけど、手も出すという人が多かった。でも、そういう人が集まったからこそ完成させられた」としみじみと語る。
 現在のプロミッソンの日系人はおよそ100世帯。働き盛りの若者は、都会に出たまま帰ってこないという現状がある。
 和教さんは「なんといってもあの頃とは時代が違う。準備にかかる人を集めるのは大変。それをどこまで動員できるかが鍵になるんじゃないかな」と襟を正した。(つづく、大澤航平記者)


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 安永孝道さんと和教さんの案内で訪れた上塚記念公園。園内には、節目を祝って建立された記念碑などが並ぶ。一つ一つが一世紀を誇る歴史を雄弁に物語っており、丁寧に説明してくれた。なかでも、「プロミッソン開拓十周年記念碑」は最も古い。「開拓五十周年祭の数週間前には、負け組による仕業で、開拓十周年記念碑がペンキで汚されるという事件が発生した」という。血気盛んな青年たちの中には「ただでは済まさん!」と騒ぐものもいたが、グッと抑えて、とにかく交代で夜番して式典まで再び汚されないように守ったのだとか。
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 その後、新たに作り上げられた「五十周年記念碑」。若者が総出で7トンほどあると思われる石碑を引っ張り挙げると、まるで計ったかのように「ピタッと止まった」とか。二人は「今でもその時の感動が忘れられない」と証言する。接合部分には何も施されておらず、縁をセメントで固めているだけで、ほぼ自立した状態で立っている。そんな「植民地の青春時代」ともいえる思い出が詰まった場所だからこそ、現地では「ぜひ記念公園で式典を開きたい」と声が上がっている。