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三島由紀夫とブラジルの出会い=リオのカーニバルで「解放」=文豪の知られざる目覚め

杉山欣也金沢大学教授

杉山欣也金沢大学教授

 今週からいよいよカーニバルだが、世界的に著名な作家・三島由紀夫とリオのそれには「秘密の関係」があったかもしれない。「三島由紀夫(1925―1970)は国際派作家として生き、国粋派として死んだ」――16日に文協ビル5階で行われたサンパウロ人文科学研究所の第22回研究例会で、杉山欣也金沢大学教授はその言葉で、講演「三島由紀夫のブラジル体験」を始めた。1952年1月末から約1カ月間当地に滞在した27歳の三島が、「何を書いて、何を書かなかったか」を発表した。

 杉山教授は「リオについてはたいへん饒舌に語っているのに、なぜかサンパウロ、特に日系社会とのことが書かれていない。唯一の例外は元皇族の多羅間俊彦さんだけ」との疑問をなげかけた。
 三島が国際派である理由として、3回も世界一周旅行をしており、米国には半年も滞在し、英語が堪能であった点を挙げた。その第1回目の旅でブラジルを訪れた。
 出発は1951年12月25日で、米国を経て1952年1月27日深夜、リオのサントスドゥモン空港に着陸する際、あまりの夜景の美しさに感動し、「リオの灯火の中へなら墜落しても良いやうな気がした。自分がなぜかうまでしてリオに憧れるのか、私には分からない」とまで書いた気に入り振りだった。
 リオ市に1週間、サンパウロ市に5日間、リンス市の多羅間農場に10日間ほど滞在し、最後の1週間はリオのカーニバルを堪能した。
 その間の紀行文は1952年に『アポロの杯』として朝日新聞社から刊行され、幾つかの小説や戯曲にも結実したが、代表作レベルの作品はないよう。杉山教授は『アポロの杯』に焦点をあて、三島が歩いた場所を追体験し、人に話を聞き、行間を読み込む作業を重ねてきた。
 杉山教授は三島のリオ体験に関して、ジョン・ネイスン著『三島由紀夫 ある評伝』(原著1974年、新潮社、野口武彦訳)の一文、《茂木(当時の朝日新聞移動特派員)の最大の驚きは、三島の「おおっぴらな同性愛」であった。茂木によれば、三島は決まったように昼間のホテルに、「公園でうろついているような種類」の十七歳前後の少年を連れてきていたとのことである。三島はそれをあけひろげにしていた》を紹介した。
 24歳の時、同性愛意識の眼ざめを描いた『仮面の告白』で脚光を浴びた三島は、日本の日本人の目が届かないリオで、それまで苦しみ抜いてきた積年の欲望を〝解放〟したようだ。
 杉山教授は『アポロの杯』の中のリオ体験を叙述した《一度、たしかにここを見たことがあるといふ、夢の中のやうなものに襲はれた》という表現を「自己の書き直しの場」と表現した。
 だからリオは、彼の中では思い出深い地となって饒舌に語られた。でも、日本人の目やマスコミの監視が多いサンパウロ市では人生に響くような体験は得られず、作品にも残さなかったようだ。
 リオの守護神は聖セバスチャン。矢の刺さった若い白人青年が隆々とした上半身をむき出した様子を描いた「聖セバスチャン殉教図」に、幼い三島が性的な興奮を覚えたことを『仮面の告白』で明らかにしている。杉山教授は三島にとってのリオを、《新たな行為の世界へと踏み出し、自らの生=性を規定し直した場》と結論づけた。


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 日系文学編集長の中田みちよさんが「世界旅行で聖セバスチャンの像などに接してから、三島は身体をきたえることに目覚めたのか?」と質問すると、杉山欣也教授は「1955年に突然、ボディビル(筋トレ)に目覚める。世界旅行の一つの結論だったのだと思う。世界旅行中に病弱だった少年時代を振り返り、『自己改造』という言葉を使い始めるようになった」と答えた。旅行記の題名『アポロ』はギリシャ彫刻の代名詞だ。実物をみて、体験を深める中で「自分もそうなりたい」と願ったのだろうか。
     ◎
 三島由紀夫が世界的に有名な理由の一つは、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で隊員らにクーデターを呼びかけて割腹自殺したからだ。杉山教授は「世界を見て回る中で、日本を見つめなおして国粋派になった」と説明した。当地の移民がブラジルという異国でもまれる中で、本国の保守的意見に共感を深めるのと似ているかも。