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リオのカーニバルで人生を変えた(?)三島由紀夫

グイド・レーニによる聖セバスチャンの殉教図(I, Sailko, Public domain, via Wikimedia Commons)

グイド・レーニによる聖セバスチャンの殉教図(I, Sailko, Public domain, via Wikimedia Commons)

 杉山欣也金沢大学教授の人文研研究例会(21日付7面で詳報)には、考えさせられるところが多かった。27歳だった三島由紀夫が選んだ最初の世界旅行(1951年12月から半年間)の主要訪問地がリオ、ローマ、アテネだったからだ。生涯に3回も世界旅行したとはいえ、初回こそ一番行きたい場所を選ぶ。そこにブラジルは入っていた▼三島は24歳で発表した自伝的小説『仮面の告白』(1949年)で、同性愛者としての自覚と分析、正常な愛への挫折を描いた。主人公は13歳の時に絵画「聖セバスチャン殉教図」に強く引き付けられ、初めての精射を体験した。杉山教授は、旅行記『アポロの杯』リオ編には「書かれていない特別なことがあった」と仮定し、それが「リオにおける聖セバスチャンのイメージ」だったと推測する▼リオ滞在に関して《その印象の強さゆえに二度と訪れないと作中に記し、また実際に行かなかった。『アポロの杯』におけるブラジルの描写はきわめて抽象的で、私たちにブラジルの実像をほとんど伝えない》(『文学、海を渡る』160頁、2016年、三弥井書店)と杉山教授は書く▼そのあまりに強烈な体験とは同性愛とか少年愛だったとの推測を聞き、深く納得した。三島の滞伯1カ月の最初と最後の1週間ずつがリオで、後半はまさに有名な「リオのカーニバル」。その間、17歳前後の少年との同性愛をおおっぴらにしていた(ジョン・ネイスン著『三島由紀夫 ある評伝』)。今でもサルバドールなど北東伯の観光地では、欧米の中年男性が若い現地青年といちゃつきながら歩く姿をみる。当時はもっと普通だったに違いない▼当時三島はすでに文壇のホープ。マスコミの目が厳しい日本国内では「少年愛」に関心を示すだけでも大反響を呼ぶ。この禁断の性向は、地球の反対側で、しかも世界でも最も享楽的な祭典の自由で熱狂的な雰囲気の中だから解放されたのか。そうであれば、三島は深い陶酔感にひたった秘密の2週間を過ごしたに違いない▼興味深いのは、三島が訪ねたリオ、ローマ、アテネ3都市ともに旧教系のラテン文化の重要都市であることだ。リオは三島が幼年期から耽溺していた耽美的な殉教図「聖セバスチャン」を守護神とする町。次に彼がバチカンで関心を寄せたのは、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けて18歳で死んだ青年「アンチィノウス」像。最後は、古代ギリシャでは「理想の青年像」と見られていたアポロ▼若き三島にとって世界旅行は、世界の広さや多様性を感じるのでなく、日本の常識から離れて「本当の自分」を見直す旅だった。彼の関心事は内面に秘められた欲望であり、それを開放して正面から向き合い、癒して折り合いをつける旅だったようだ▼だから戒律に厳しい新教の米国ではなく、旧教国でなおかつ享楽的なリオのカーニバルを選んで訪ね、「罪を犯しても懺悔をすれば許される」風土を堪能したのか。「旅の恥はかき捨て」の気分もあったかもしれないが、「リオの経験」は公にできないものだった。それゆえに『アポロの杯』ではきわめて抽象的な描写に徹した可能性がある▼三島の代表作の一つ『禁色(きんじき)』の第1部はこの世界旅行の直前に、第2部『秘楽(ひぎょう)』は旅行の直後に発表された。大胆にも同性愛者の美青年を主人公にすえ、その美貌を「ギリシャ彫刻」に譬えて美の化身として賛美する小説だ。当時の近代日本文学にはない傾向で、三島の作家としての地位が高めた。三島はこの作品を《二十代の総決算》と位置付けて意気込み、『仮面の告白』とならぶ代表的な男色小説として完成させた。世界旅行での実体験が、踏み込んで書く自信を与えたのかもしれない。世界に冠たる有名作家とブラジルは、思いのほか「密かな関係」を持っているのかも。(深)