マリリア市内中心から車でおよそ15分。ひっそりとした佇まいの自転車店内に日高徳一さん(90、宮崎県)はいた。狭い店内に入ると、「よく来てくれました」としっかり手を握り、朗らかな表情で迎えてくれた。
勝ち負け抗争に翻弄され、脇山甚作陸軍退役大佐事件に実行者として加わり、12年間刑務所で服役したという元強硬派の最後の生き残りだ。
終戦直後、サンパウロ州を中心に血みどろの抗争を繰り広げた日系社会。特に、マリリア周辺では激しい衝突があった。
「なぜ、勝ち負け抗争が起きたのか」と率直に聞いてみると、しばらく考えたのち、「国の中心に天皇陛下がおられるなかで起こった事件だった」と静かに語り始めた。
終戦後、「誰も負けるとは思っていなかった。口には出さずとも戦勝を信じていた」と往時を語る。情報が錯綜し、偽情報文書を売る詐欺師さえ現れるなかでも、その思いが揺らぐことはなかった。
だが2カ月後、敗戦を伝える外務省からの詔勅が届いた。日系社会の指導的立場にあった7人により伝達書に署名され、配布されたのだ。
「まさにこれがやぶ蛇だった。日本の戦勝を信じる人々の気持ちを逆撫でする結果になった」と言葉を詰まらせる。
そこから不穏な雰囲気が強まり、警察官が日章旗で汚れた靴を拭いたとされるツッパン事件が起き、さらに皇室に関する不敬な話を噂として流す行為までが起きてしまい、情報が錯綜するなかで「負け組の仕業」として伝えられたという。
「皇室の尊厳が冒涜され、じっとしてはおられなかった。帝国陸軍大佐でありながら、敗戦を認め混乱させた責任をとってもらう必要がある」。そして、当時20歳だった日高さんは決起に加わることを決心した。
だが「脇山大佐の態度は実に立派だった。人を危めるのは、どんな理由があってもあってはならない」。事件後、日高さんは自首。12年間、監獄島アンシェッタや各地の刑務所を転々とし、模範生として過ごした。
奇しくも出所したのは、三笠宮同妃両殿下が御来伯した58年だった。(つづく、大澤航平記者)