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自分史 戦争と移民=高良忠清=(1)

 私は昭和十年(一九三五年)、沖縄那覇市字小禄(オロク)屋号新大屋(ミウフヤ)の七男として生まれました。長男から三男までは昭和十一年(一九三六年)に移民としてブラジルにわたり、四男夭死、残った五男、六男、三女と私は両親と一緒に暮らしていました。

シリから一番

 七歳なると私は小禄尋常小学校に入学。成績はいつも後ろから数えて一番でした。一年生が終わる頃、先生から「おまえは落第させるはずだったが皆と一緒に進級させるから今度はうんと勉強しなさい」と言われました。そんなこともお構いなく、二年生になっても勉強する気はまったくありませんでした。
 何ページから何ページまで暗記をするように先生から宿題を出された日も、家に帰るとカバンを家の中に放り込み、そのまま道に跳びだして遊びまわった。やっと夕方家に帰り、まだ父さんが家に帰っていないことを母から確かめると安心してなかにはいった。それが私の日課でした。
 次の日には先生から、高良忠清、暗記してきた何ページから何ページまでを読んでみなさいと言われた。かすかに思い出した一行を読んで後はなし。もう良いから座りなさいと先生も諦めたようだが放課後は残って教室に罰として立たされた。
 夕方になり先生も帰宅する時間になると、今日はもう帰ってもよいがもうちょっとしっかり勉強するようにと念を押された。そんな時間に学校にはもう誰もいなかった。学校から人家のあるところまでの薄暗い三百メートルほどの帰り道は恐ろしくなっていっきに走って帰った。それからも再三罰をうけたがもっぱら遊びまわるだけで勉強しなければなどとは思いもしなかった。
 こんな具合で、二年生になってもしりから一番。家の中でも勉強の話が出ることはほとんど無かった。母に勉強をするようにといわれたことも無く、手を取って教えてもらったことも無い。
 母は貧しい家庭に生まれ八歳の頃から他人の子守りをして働き、学校にも行けず無学のまま育った。あの頃は女に教育はいらないといわれた時代です。自分自身が教育を受けられず、子供に勉強も教えられない可愛そうな母でした。
 そんなことから私は何時もクラス中で後から数えて一番、罰で放課後は教室に立たされ、たびたび学校の門を閉めさせられたものです。
 三年生になる頃には学校にもなれて毎日弁当のイモを抱えて登校。恵まれた家庭の子供達の弁当はお米のご飯でしたが、多くの生徒は家に残ったもので間に合わせていたのです。
 ある日、先生が弁当を持ってこなかった人は手を上げなさいと言った。一人の友達が手を上げると、先生は自分の弁当の半分をその子に分け与えた。私は子供ながらの好奇心から先生の弁当はなんだろうと見ていると、それは丸くて真っ黒いものでした。
 後でその子になんだったのか聞いてみると、ご飯をノリでまいたものらしかった。あの当時スシなど見たことも食べたこともなかった私には、それはなんとも不思議な食べ物に思えたのです。
 こうして貧しいながらも恵まれた自然にかこまれ、ゆったりとした時の流れの中で、毎日思いっきり遊びまわりながら、私の子供時代が過ぎ去っていった。