戦争間じか
私が十歳になった頃、第二次世界大戦が沖縄でも始まるということで、日本軍隊がゾクゾクとやって来た。
しかし軍隊の兵舎の準備も無いまま、学校、全ての公共施設を徴用、そして民間の家々も利用して小グループの兵隊達をわりあてた。
やむなく子供たちは学校の運動場に集まって青空天井の教室で勉強をしたが、授業の無い日が多かった。その当時、戦争は沖縄で始まるが本土はまだ安全だということで、先生や若い娘達の付き添いで学童疎開も始まった。
だが、避難中だったある学校の生徒達が乗った船は、敵の潜水艦によって沈没され生徒全員命を失った。兵器弾薬を積んだ輸送2船も撃沈され、沖縄の日本軍は深刻な武器不足に苦しむことになる。海は敵の潜水艦によって警戒監視され、沖縄への出入りはすでに断たれていたのだ。
父は軍の指令に従って避難防空壕を掘り始めた。五男で十七歳の兄は兵隊の手助けをする防兵隊として召集され、六男で十五歳だったもう一人の兄は先生達に引率され農兵隊として国頭(クニガミ)に避難して行った。
そして沖縄戦
昭和十九年(一九四四年)十月十日、朝七時頃、第一回目の大空襲が始まると空いっぱいに飛んできた敵の艦載機であたりが薄暗くなるほどだった。
我が家の後方へ五キロメートル程の所に小禄飛行場、一キロメートルぐらい離れて那覇桟橋があり、飛行機はそこを目標に機銃掃射、そして爆弾を投下して行った。まわりは一挙に火の海となったが日本兵達はまだ演習だろうと思ったらしい。
それでも、空から雨のように落ちてくる薬きょうに気づくと、敵だっ、と悲鳴をあげながら大騒ぎとなり、我が家に配備されていた三丁の重機関銃を外に持ち出したが隊長の命令がなく一発も撃たないまま、敵が悠々と攻撃して立ち去るのを見守るだけだった。
それから数カ月続いた戦火の中、住民達は島の安全地帯を求めて避難を始めた。特に沖縄北部は海山地帯で、より安全に違いないと言うことで多くの人達に混ざって父の義弟も家族をつれてそっちを目指した。
この地帯は農産物を植える面積も少なく住民の多くは出稼ぎに行った。残った住民は山の木を薪にして那覇の町で売って生活していた。当時はトラックも無く運送は船で行われた。農産物に乏しい所で避難民は食料不足に苦しんで引返した家族も沢山いた。
沖縄の広い地域にくわしかった父は、国頭の浜辺は砂浜で敵が上陸しやすい、岩の多い南部の島尻(シマジリ)の方がその可能性が小さいだろうと考えて国頭には行かなかった。
しばらくすると、戦況は激しさを増し本格的な悲惨な戦争の幕開けとなって行った。
敵の飛行機の群れは空を覆いながら絶え間なく飛来して両翼から打ち出す機関銃、そして爆撃を一日中繰り返した。
しかもこの敵機を迎え撃つ日本の戦闘機は一機たりとも現れることは無く、敵は毎日あっちこっちを攻撃しては夕方になればさっさと飛び去って行った。
時には沖縄の上空を悠然と飛んで日本の攻撃に向かう大きなB―二十九に向けて高射砲をうつも、その高度には届かなかった。