その間、私の家族は防空壕で避難生活を続けていましたが、空襲がおさまる夕方ともなれば母は食事の支度にテンテコマイとなります。昼間は煙を立てることは出来ず炊事も暗くなるのを待ってからという毎日が続きました。
ある日、私たちの部落も攻撃を受け、一瞬にして火の海に覆われ、家々は焼き尽くされた。戦争前には消火訓練に励んでいた大人たちも手の施しようも無く、村はやっと二軒を残してほぼ全焼、一日のうちに見渡す限り真っ黒な焼け野原と化した。
我が家で飼っていた三匹の山羊達も逃げ場を失い焼け死んだ。父はその丸焼けになった山羊を防空壕に持ち帰ってみんなに振舞った。突然現れたご馳走に親の苦労も知らず、私は子供心に喜んで美味しく食べたことを思い出す。
戦争はだんだん激しくなる一方で、いよいよ艦砲射撃が始まると、砲弾は昼夜を問わず飛んできた。夜空に赤い火の尾を引きながら、フィイー、フィイーと飛んできて、あたりかまわず落下すると、爆発した破片が花火のように飛び散った。
壕の近くに落ちた爆弾は、フィーと音がしたかと思うとすぐドーンと破裂した。防空壕には爆風よけがあったが、それでもチョッと爆風が入ってきた。
夕方になって砲火がおさまった時、壕の外へ出てみると道の真ん中に爆弾が落ちて、大きな穴で道路は遮断されていた。
ちなみに道を切られても日本軍にはとりわけ何の影響も無かった。ガソリンは枯渇して軍の車は一台も動いていなかったのだ。
数日後の夜間、半分は鉄砲、そして後の半分は竹槍を担いで二十人ほどの兵隊が首里(シュリ)に上陸した敵を迎え撃つため列を作って前線へ向かうのを見送った。
戦況は時が過ぎるにしたがってますます悪化した。それでもある日、素晴らしいニュースが飛んできた。海軍記念日には友軍機が沢山やってきて敵を全滅させるということでみんな喜んで期待を膨らました。
しかし、残念ながらその日になっても日本軍の戦闘機が一機も姿を現すことは無かった。夕方になると毎日小型機が空をグルグル旋回しながら偵察にやってきた。民間人には何もしないが、それでも兵隊と同行しているところを偵察機に察知されれば大変なことになる。軍艦に連絡されすぐに艦砲の弾が飛んでくる。
ある時、どこからかその偵察機めがけて高射砲が打たれ、弾は両翼の間で炸裂、敵はすぐさま飛び去った。この反撃が我が家の防空壕の近くからと敵は判断したらしく、その後、私たちは激しい迫撃砲の攻撃にさらされた。
砲弾は四方八方で炸裂し、我が家の壕は崩れんばかりに揺れた。迫撃砲も艦砲と同じように敵の軍艦から飛んでくるのですが、迫撃砲は弾が十発ぐらい次々と飛んできてあたり一面に落ちてくる。
艦砲は一発ずつだが落ちた時は大きな音を発てて爆発し、地面に大きな穴を開ける。
戦火に追われ
付近が狙われているらしく、二日後には壕から逃げ出すことになった。
祖父母は、「わし達はもう年寄りだからここで死ぬからお前達は逃げなさい」と言うので父母、姉、私、そして叔母と二人の義兄妹そろって逃げた。
一キロメートルほど行ったと時、後ろの方でドンドンドンと迫撃砲の弾が爆発する音が聞こえた。確か我が家の防空壕の付近だと思いながらもひたすら逃げた。