母は、叩かれても言うこと聞かずその人達について行こうとする姉を連れ戻そうと追いかけて行き、返ってこなかった。
終戦になってからの話では、沖縄人に変装したアメリカ二世が、我々の来た方を指して、向こうには敵が居るからコッチヘ、コッチヘと道で誘導していたらしく、皆その後を追って行ったとのことだ。
父と私が降ろされたに処には、地下に掘られた防空壕があったので、夜露を避けてその入り口で寝た。そのままそこで夜を明かした父に、朝早くアメリカ兵がやって来て缶詰を開けてくれた。
アメリカ兵が来ているから壕から出るようにと父に言われたが、私は驚いて座ったまま身動きも出来なかった。
すると一人のアメリカ兵が、子供心にそうはさせまいと力む私を軽々と抱えて外に出し、丁寧に缶詰を与えてくれた。父に、毒は入ってないから食べなさいと言われ、それを食べたあと野戦病院へ送られた、
父と私は、傷を負った病人達の長い列の先頭に居た。アメリカ軍医が父の足に巻いた包帯を切り開くとウジ虫が湧いていた。毎日豚油と塩で治療してはいたが、その日は丸一日、日本兵がくれた薬の付いたガーゼを使って手当てをしてはいなかった。
軍医と沖縄人看護婦達は一生懸命に次々と患者の手当てをしていった。やられた腕を開けるとウジが落ちる。ある女の人の傷ついた乳房からもウジ虫がポロポロ落ちた。治療を終えると野戦病院のテントのなかで父と寝台に並んで入院した。
三日後、病院移動と言うことで、私を含めた数人が外に出されたが、その日には移動せず、その間、私は父の居るテントに向かってユックリ、ユックリ四つん這いで近づいて覗いてみると、父はそこに居た。
二日後に、また移動といって、誰も行く先は判らないまま病人達はトラックに乗せられた。トラックが凸凹道を通るたびに病人達は悲鳴を上げ、泣き、唸るありさまで、中にはアンマヨー(お母さん)と泣き叫ぶ病人も居ました。
トラックがある部落に着くと、病人達に水が与えられた。村人たちは、私たち一人一人に丁寧に水を飲ませてくれた。あの水の美味しさは今でも忘れません。
そして又出発して、凸凹道に戻ると皆同じように悲鳴を上げた。私は背筋が引きつり、頭は後ろにひっぱられ痙攣を起こしたようになった。
照りつける太陽の暑さに喉は渇くし、それを察してアメリカ兵の運転手は又次の住民が収容されていた部落にトラックを止めた。同じ様に村人が丁寧に水を下さった。トラックはその部落を後にして前に進んでいった。
私は座ったまま小便をしたし、国頭(クニガシラ)の字久志(クシ)の野戦病院に着くまで、三回も背筋が引きつった。私は破傷風の症状が始まっていたのだが、それを知るすべも無かった。三名の人達がここにたどり着く前に亡くなった。
父と共にこの野戦病院に入院したが、私は看護婦さんの配ってくれたお握りを食べることは出来なかった。口も開けるのもままならず、ご飯一粒さえ喉を通らず、私のおにぎりは寝台の上に置いたままになっていた。
破傷風の容態を知っているという隣で寝ていた中年の叔父さんが看護婦を呼んで、この少年は破傷風に違いない、何とか見てやってくれと頼んでくれた。