久しぶりに救済会の総会を取材して、瀬戸際に立たされている現状にショックを受けた。戦争中から日本移民を助け続けてきた救済会。その弱者救済の精神ゆえに、経営が追い詰められている現状にやるせなさを感じた。これをほっておくことは、世話になって来たコロニアとして許されることなのかと…。日系社会の一番苦しい部分を救済会が助けて来てくれたから、コロニア全体が安定してきた。いまこそ、救済会のために各人ができる支援をすべき時がきたのではないか――総会を後にしながら、そう思った▼75年前の1942年1月、米国の主導の中南米外相リオ会議で、ブラジル政府は日本など枢軸国に対して国交断絶を決議した。日本人は自国語で書かれたものの配布禁止、公の場での日本語使用の禁止、警察の許可なく移動禁止などの監視状態に置かれた▼4月に入ると日本人敵視はさらに強まり、企業家や日系社会リーダーが根こそぎ政治社会警察にスパイ容疑で逮捕され、捜査も裁判もないままに不当拘留される状態が始まった。寒さが厳しくなった6月、留置場に送られた日本移民にセーターや食べ物の差入れをするために立ち上がったのがドナ・マルガリーダ渡辺だ▼「サンパウロ市カトリック日本人救済会」と当初名乗ったのは、彼女がサンパウロ大司教ドン・ジョゼ・ガスパル猊下に相談すると快諾してくれ、大司教館が事業監督を引き受けてくれたからだ。敵性国民である日本人は、公的組織の庇護に入らない限り、留置場に差入れにいくことはもちろん、病人や貧困者に薬や金品を渡すことも不可能だった。大司教は会計理事に彼の右腕の神父を任命してくれ、おかげで警察も手が出せなかった。43年7月にサントス海岸部の日本移民が24時間以内に強制立退きさせられた時も、サンパウロ市に送られた6500人に食料を渡すなどの応対をした▼『救済会の37年』(1979年)の座談会には興味深い回顧録がある。マルガリーダ本人が語っているが、政治社会警察に召喚され、5時間も立ったまま訊問され、「お金はどこから来たのか、いろいろ聞かれた」とある。尋問後に疲労で歩けなくなり、《階段を登ることが出来ず、主人に抱えてもらって家に入りました》。それでも活動を続けた気丈な女性だ▼警察はなんと大司教館にも捜査に入り、《その時に会計を担当していたのが、モンセニョール・コンセンチーノという名の荒法師のような人で、どんなお金でもこの教会に入ったら浄財なんだ、あなた達は何を云うかと追い払った、とカラカラと笑って話してくれました》という逸話もあった▼この動きはバチカンにも伝えられ3回に分けて各100コントずつ、なんと法王が送金した。その恩を忘れないために救済会のポ語名称は「アシステンシア・ドン・ジョゼ・ガスパル」となっている。とはいえ救済会はカトリック団体ではない▼1953年、ブラジル法に則った慈善団体に正式登録された。事業内容は《貧困者・疾病者およびその家族の救済、寄辺なき老人の収容・養老院への入院斡旋、孤児・私生児の教育・養育、精神病者の入院斡旋、結核患者の入院斡旋と救済、死者(無縁仏)の埋葬、失業者の就職斡旋ならびに人事相談など》と多彩なもので、1967年11月末までの25年間の延べ救済数は実に6万1403人に達している▼つまり、1959年にサンパウロ日伯援護協会が創立するまで、ありとあらゆる日本人救済を一手に引き受けていたのが救済会だ。今でこそ援協は2千人からの職員を抱え、立派な病院を経営するが、かつては救済会の仕事のほんの一部を引き受けただけの存在だった▼ドナ・マルガリーダの働きがなかったら、当時どれほどの移民が路頭に迷ったか分からない。救済会しか福祉団体は存在しなかった。だから今も彼女は「コロニアのマドンナ(聖母)」といわれる。移民50周年の記念事業として1958年に老人ホーム「憩の園」を創立した。それが今、瀬戸際に立たされているとは、本当にやるせない…。おりしも総会の翌日、聖母婦人会主催でドナ・マルガリーダの20回忌ミサがサンゴンサーロ教会でしめやかに行なわれた。(深)★救済会の在日支援協力会サイト(http://kcv-net.easymyweb.jp/member/brz_zainichikyo/)