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自分史 戦争と移民=高良忠清=(10)

 石川まで母を訪ねるには所々自由に入れない禁止区域があったので、兄は役所で旅行証明書を貰いに行った。
 しかし、石川までの証明書は出してくれませんでした。宜野座までなら、ということで、とりあえず宜野座までの証明書を貰って石川を目指して出かけることにした。
 照屋幸栄と那覇出身の青年も、石川には自分達の親戚が居るから一緒に行きたいと言うことになり、幸栄君もお母さんを一人残して、みんなと同行した。石川までたどり着かないうちに夕暮れとなり、途中で休むことになった。
 アメリカ軍のゴミ捨て場の台上に、ねせて並べてあった十本ほどのドラム缶の下に横になって寝られるぐらいの隙間があったので、そこで夜をすごすことにした。
 そこに後から食料探しにやってきた七、八人の若者も一緒に寝ることになった。暗いので誰かがロウソクを点けて寝ていたが、いつの間にかそのロウソクが倒れ辺りに火が広がった。
 逃げ遅れたもの者は居なかったが、その夜は星空の下で明け方を待って、朝早く石川に向けて出発、午後三時ごろにはむこうについた。
 村の入り口で巡査から旅行証明書を求められ持っていた証明書を出した。巡査にそれは宜野座までの許可だと指摘されて、兄は、「この子(私)に証明書を取りに行かせたら、宜野座には叔母さんが、それから母は石川なのに、間違って宜野座と書き込んでしまった。だが、私達が探している母は石川に居るのです」と言い訳をしたら、巡査は、分かったと言ってそこを通してくれた。
 住所も分からないまま探していた母に偶然会うことが出来た。母はあまりの喜びに涙を流しながら踊りました。母の健康は余り優れては居なかったが毎日仕事に出て生活していました。
 当時の日給はお金ではなく食券で貰い、それを食料と交換する仕組みでした。幸栄君も那覇の青年も、私たちと同じ様に住所も分からなかった親兄弟姉妹にすぐ会えたのは非常に不思議です。多分神様が引き合わせて下さったのだと思います。
 それにしても、国頭の久志から石川まで何も食べずに頑張って旅をした十二歳の照屋幸栄は本当に勇敢な少年だった。彼はたった十二歳なのに大人以上の勇気と知恵を持っていた。
 久志に向かうアメリカ軍のトラックが上り坂で速度を落とした時、その後ろにぶら下がって帰ってきたと話していました。別々に久志に引返した幸栄君のそんな話しは村に帰ってから聞いた。
 沖縄は何処を見渡しても焼け野原で、禁止区域があちこちに沢山あって、自分の村に帰れない住民達は禁止区域になってない村にまとまって収容された。政府はそんな人達を取り急ぎ住ませるために短時間で仮設住宅を建てた。
 私が国頭の久志に居た時も昔の家と違って、この新しく建てられた戸も無い、馬小屋のような家の中で他の二、三家族と一緒に住んでいた。
 石川でも同じ様な家の九平方メートルほどの部屋に同字人が十二人も同居していました。そこには兄と同じ年の青年もいて、兄と一緒に食料探しに良く出かけ、決まっていろいろな食べ物や衣類まで持ってくるので母はもう仕事には行かなくなった。
 あの頃はみんな、着の身着のままの生活で、冷たい夜も寒さをしのぐ毛布一枚もないものが多かったが、アメリカ軍の兵舎には本国へ帰国した兵士達の残した軍服や毛布が沢山あったので、それを貰ってきてさむい夜も何とか暖かく寝ることが出来た。