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JICA=日系社会ボランティア30周年=リレーエッセイでたどる絆=第18回=元気を届け合いたい

同僚(右後ろの男子)や日系二世の友人らと、ブラジリアの本願寺の盆踊りに法被姿で参加。右端の女の子がその後、亡くなった(撮影2000年)

同僚(右後ろの男子)や日系二世の友人らと、ブラジリアの本願寺の盆踊りに法被姿で参加。右端の女の子がその後、亡くなった(撮影2000年)

 ブラジルから大きな封筒が半年に一度届く。ブラジリア日本語普及協会の協会誌をいそいそと開く。
 日本語教師の研修会を中心に活動報告が並ぶ。知った名前を見つけ、新しい教授法に挑む姿に元気をもらう。懐かしい首都の青空も目に浮かんでくる。
 協会誌は昨年秋に第33号を数えた。カラー刷りで製本され、100ページを超えることも。17年前の第1号は、コピーした紙をホッチキスでとじた冊子だった。
 その創刊に日系社会青年ボランティア14回生として立ち会えたことを自慢したい。職種は「編集・企画・広報」。当時は新聞記者で、現職参加をした。20代のはじめに中学教員だった経験も役立った。協会誌に叱り方や学習の動機付けについてレポートを載せた。
 帰国して16年になる今も協会誌が手元に届く。ありがたい。協会の三分一貴美子理事長の義理堅さに恐縮してしまう。
 2年間の在伯経験が、その後の人生に少なからず影響を与えた。帰国後はデカセギの日系人やブラジル移住100年も取材した。ブラジルで出会った人々が、どう思うだろうかと意識しつつ記事を書いた。
 4年前、50歳を目前に公立中学の教員に再転職した。振り返れば、ブラジルで同期や現地の先生の奮闘に接して、教室に戻りたいという思いが芽生えたのかもしれない。
 地理の授業でブラジルを扱う時は、日系社会の説明に力が入る。ブラジリア遷都に際し、日系農家が食糧生産を担った挿話を紹介する。ニッケイ新聞を教室で見せ、邦字紙の意義や、日本語の継承が日系社会にとって欠かせないことを話す。
 日系人が日本語を話すことを肯定的にとらえる生徒は多い。一方で、日本で暮らす韓国人や中国人にとっての母語は否定的に見る。日系社会を学ぶことで、その矛盾にも気づかせたい。
 多くの縁ができた。この原稿も、ニッケイ新聞編集長の深沢正雪さんが青年ボランティアの同期生だったゆえに書いている。深沢さんを介し、映像作家岡村淳さんらにも出会えた。仕事に矜持を持つ人たちが地球の反対側にいる。元気をもらえる。できるならば、わたしも元気を届けたい。
 そんな交流のある日系二世の若い友人がブラジリアにいた。多数の死傷者が出るJRの脱線事故が兵庫県で起きた2005年、安否を問うメールを送ってくれてうれしかった。
 その彼女が闘病の末に亡くなって10年になる。いつかブラジリアを再訪し、墓参したいと思っている。

宮沢 之祐(みやざわ・しゆう)

【略歴】京都府出身。53歳。中学校教諭を経て1989年に神戸新聞の記者に転職。阪神・淡路大震災などを取材。99年~2001年、ブラジリア日本語普及協会に派遣。復職したが、13年から再び教職に就き、京都府の公立中学校で社会科を教えている。