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自分史 戦争と移民=高良忠清=(14)

 お国のために潔く死んで来いと教育されながらも、いざとなれば弱いものを犠牲にしてでも生き永らえたく思う者もあった。それが戦場の悲劇だ。
 それにしても、物資に乏しい日本はあの悲惨な戦争を勇気だけで戦った。犠牲になった人達にはほんとうに気の毒ではあるが、日本が負けてよかったと私は思う。
 井の中の蛙、大海を知らず、と言うことわざがあるが、戦後になってその蛙は大海を知り、外国との交流で新しい文化や技術を取り入れて発展することになったのだ。
 あの昭和二十年(一九四五年)を境にできた戦前、戦後という言葉も世代が移り変わってゆくに従ってなくなって行くでしょう。

 母

 母は学問こそ無かったが、子供達を立派に育て上げ、生活の知恵にはことかかなかった。何でも手に入ったものは、明日のため上手に保存した。
 我が家で何人かの日本兵が寝起きしていた頃、兵隊さん達のご飯が残るとそれを母に与えた。母はその炊いたご飯をもう一度乾燥させ保管した。いよいよ戦争が始まった時、この乾かしたお米がとても役に立った。
 終戦直後の厳しい食料難の折には、山でいろいろ草木の葉や花を採り入れ、海からは石にくっついて生えていた藻草(アーサ)を取ってきて乾燥させては保存食にした。私達は気付きもしなかったが、ネズミもうまく料理したそうだ。今どきの人にこんな話をすれば笑い事にして済ましてしてしまうかもしれない。
 母はちょっとでも余った食べ物は必ず乾燥保存して食料不足を補った。自家用に植えていた野菜も、お金になるものは町にもって行き、それを売ったお金は一銭、一銭貯えていた。いつでもいざと云う時を配慮していたのです。酒好きの兄が掛けで飲んだ酒代の付けも、母がちゃんと払うことさえありました。
 または母は、私たちにいろいろなことを教えてくれました。そのうち母に習った沖縄語の一言は未だに忘れません。(ドウニル フンシ ヤ アル)と言う言葉です。
 その意味は「自分の体の中に神が宿る」と言うことです。だからこそ他人に因るものではなく、自分自身の心がお前達たちの人格を創るんだよ、と口癖のように教えられました。若い頃はほとんど気にすることも無かった母の教えですが歳をとるに従ってやっと母の教えが分かる様になってきました。 

 少しのお米 

 私の親戚の叔母さんがフイリッピンで夫は兵役、四人の子供を抱え食料も無く、最後の少しのお米を次の日に炊いて子供達に食べさせようとおいてあった。ところが二人の日本兵がやってきてそれを鍋ごと盗んで行った。兵隊は食料に気をとられて銃を忘れて逃げ去った。
 翌日、忘れた銃を取りに来た兵隊に向かってある叔父さんが、発砲するぞ、と脅したら、またあわてて逃げ去った。お国のために尽くす兵隊さんでも、空腹には勝てず、盗んでまで腹を満たそうとしたのです。食べ物がなくなるとこの様にして人の心は変わるのです。叔母さんの三人の子供は栄養不足で死んでしまった。
 悲惨な戦争はこんなふうにして罪の無い子供達を犠牲にしてしまったのです。私も空腹のあまり道におちていた一欠けらのパンを拾って食べたこともありました。生活上一番大切なものは食べ物です。