少年時代の最後の闘い
学校の行き返りはいつも一緒だった、私の同級生たち、高良政雄、上原幸一、上原正次郎は、皆近所に住む友達同士だった。
政雄君は他人に命令するのが好きな気性で、私は他人から何か命令されるのが大嫌いな性分だったから、二人の間では口喧嘩が絶えなかった。口喧嘩しながらも、友達であることにかわりはなかったが、中学三年のある日、口喧嘩ばかりしていてもし様がない、どっちが強いのか、丘の上で本当の喧嘩をやろうということになった。
他に、上原正次郎、上原正一も一緒に丘に上がってそこで二人は向かい合った。しばらくはどっちも手を出せずに居たが、彼が最初に手を出したので、私はこれを受け止め、足で彼の顔を蹴ろうとしたが足を滑らし転んでしまった。
相手は私の腹の上に跨って殴ろうと手を振った。こっちはそれを受け止めながら、反対に突き返した手が、相手の鼻に当たり、ボトボト政雄君の鼻から血が落ち始めた。
喧嘩もそこまでにして皆家に帰った。それでもふたりが友達であることに変わりは無かったが、しばらくして家が貧しい事もあり、母の加勢をするため私は学校を止めた。政雄君も卒業してから実社会に出たので、その後彼と会う機会はまったくなくなってしまった。
(私もしばらくしてからブラジルへ移住してしまい、二人が出会うことはずっと無かった。二〇〇一年に四十三年ぶりに私が沖縄を訪れた際に、私の歓迎会もかねて昔の同級生達が同窓会を設けてくれた時、やっと私達は再会できた。
ほぼ半世紀の年月が過ぎて出会った旧友達の変化に戸惑った。おかっぱの少女時代から急にすばらしいご婦人に変わった女性達のなかの何人かには昔の面影を思い出すことも出来た。懐かしい昔話に花が咲いて楽しい時間が過ぎてから、帰り際にあの政雄君に呼び止められた。
政雄君は、お前の兄さんと俺の兄さんはとても仲の良い友達だった、俺達もこれからは良い友達になろうといった。懐かしい政雄君からそんなふうに言われ、チョと複雑な気持ちにもなりました。少年時代に喧嘩したこともあったけど私にとって彼はいつも素晴らしい友人です。
一緒に飲みながらゆっくり話そうと、食事に招待してくれました。レストランの前で落ち合ったとこまでは覚えていますが、中で何を飲み、何を食べ、彼とどんな話をしたかはまったく今思い出せないのは不思議です。
あれからもう十三年が過ぎて、今このブラジルで自分史を書きながら、政雄君のことを思い浮かべつつ、あの政雄君と過ごした少年時代からここまで人生長い道のりではあったが、これからもお互い元気で、必ず又、彼と再会できることを神様に祈っているのです)
戦いは終わったとは云うけれど、政府は何か沖縄の産物を輸出してドルを稼ぎたいところだが、沖縄は産業の乏しい島でそれもかなわなかった。
幸いにしてアメリカ軍が「軍作業」という名目で、月給はドル払いで県民に職場を与え、政府はそのドルを円に替えて労働者に払い、ドルを確保できた。政府はなるべく輸入品を買わずに国産品を使うように県民を教育し、県民もそれに協力した。あの当時のお金は軍票で、一ドルが百二十円ほどでした。軍票は軍隊が戦地や占領地で通貨のかわりに発行された手形です。
同級生の大多数は高校に進学したが、私は十七歳で中学を卒業して実社会で働くことにした。私は朝早く母が作った温かい弁当を脇に抱えて仕事に出る時、バス停でよく高校生になった同級生達と出会い、羨ましくもあり、恥ずかしくもあり、そんな複雑な思いに胸を打たれた。