私達の渡伯はチョッと早すぎたので、渡航費は自費負担となったわけだ。洗濯屋は私もブラジルに移住することになったので、やめることにしたと社長に伝えた。意外にも社長は、私が配達を始めてから車の経費も非常に軽くなり喜んでいたそうで、最後の月給に足して励ましの言葉と餞別までくれた。
洗濯屋の仕事は辞めたけど、まだブラジルに行く日もまだ決まっては居なかったので、私の伯母さんの甥、上原三郎さんがタクシーを買ったので運転手が必要と言うことで、私は仕事もしていなかったので、四カ月ぐらいそのタクシー運転手として雇われました。
雇い主の三郎さんは、主人と言うより私にとって兄さんのような気持ちで毎日働いた。就労時間は二十四時間交代でした。三郎さんと妻のトシさん御夫婦には三人の可愛い娘達、光子八歳、フサ子、トヨ子が居りました。
私が交代勤務に来たら一緒に遊びたいとの事でした。私が帰ろうとすると、トヨ子ちゃんが何故遊んでくれないのかと駄々をこねて泣き始めた。遊ぶけどお便所にチョット行ってからね、といってだまして家に帰ったことも再々ありました。
三郎さん御夫婦は娘ばかりで、どうしても相続人として男の子が欲しいといって、お医者さんにも相談、診察したがとうとう男の子には恵まれなかった。
私はブラジル行きの日が決まり、そのタクシー運転手も辞めました。ブラジルへたつ当日、三郎さんは私たち家族を桟橋まで送ってくださいました。これも皆、ついこないだのようですが、三人の可愛いお嬢さんたちも、今は孫を持つお祖母ちゃんとなっていることでしょう。
私はこの自分史を書きながら、昔を思い出しながら、三人のお嬢さん達の幼い顔が眼に浮かびます。いつの日か再会できるよう、神さまにお祈りするのです。
沖縄は戦争で十四万人に余る犠牲者を出したが、敗戦とともにそれまで外国へ出稼ぎに行っていた人達が故郷へ、故郷へと引き上げて帰って来たので急激な人口増加となったのだ。
復興に追われていた琉球政府が、この人口過剰に頭を悩ましていた時、ブラジルの沖縄移民受け入れが再開され、これを機に最初、政府は旅費の貸付けを五年後返済という条件で、しばらくしてブラジル移民希望者の旅費は琉球政府が全額負担することになった。
そんなことから沢山の沖縄県民がブラジルへ渡ったわけだ。移住昭和三十年(一九五五年)七月十七日に那覇港を出発し、五十余日の船旅を終えて九月六日サントス港に到着し、ブラジルの地に第一歩を踏み入れた。
とりあえずサンパウロ市内の親戚の家にお世話になった後、夜行列車で田舎に向かった。翌朝九時ごろ、パウリスタ線アダマンチーナ駅に着いてから、バスでドラセナ町まで行き、町からは客馬車で田舎に這入った。
兄夫婦に面倒を見てもらいながら、日本語も話せる甥や姪にちょっとずつポルトガル語も習い始めた。島で野良仕事をしたこともあるが、ここでは沖縄の百姓とは比べ物にならなかった。兄は小作農だったが、とても大きな農地で働いていた。
一年間ぐらい兄と一緒に落花生と綿を植えて働いたが綿は不作、落花生は収穫期に雨が多くて思うようには行かなかった。そこで兄は果樹に切り替えることにして私も苗の植え付けを手伝っていた。
そうしているうちに、サンパウロに住む兄が「菓子工場を買ったが、一人では経営が大変だから手伝ってくれ」と言うことで、昭和三十三年(一九五七年)にはサンパウロ市街に出てきた。