「今では残された兄妹は私一人だけ。家族の思い出を大切に残しておきたいの」―。そう語るのは、サンパウロ州アチバイア市で静かに余生を送っているドロシー・ジュリア・アメコ・ジョーンズ・ダ・シルバさん(81、三世)だ。茶色がかった瞳に、何処となく異国情緒が漂ようドロシーさんの母は、笠戸丸二世第1号にして、当時珍しかった国際結婚をしたジョーンズ橋口芳子ローズさんだ。
これまでに当地の雑誌に掲載された記事を丁寧に切り抜き、家族写真と共に大切に保管しているドロシーさん。母が笠戸丸二世第1号にして、当時ごく珍しい国際結婚であることは、日本移民70周年前後に何度も伯字誌などで報じられた。
そんな記憶を辿るように一つ一つを手に取って、ドロシーさんは家族の物語を語り始めた。
1908年6月18日、781人を乗せて到着した第1回移民船「笠戸丸」のなかに、熊本県出身で教員だった橋口敏政さん、妻タニさん、長男敏信さん、義弟村崎豊重さんからなる一家がいた。
タニさんは、神戸港出航時にはお腹のなかに妊娠一カ月の命を宿していたが気づかなかった。
一家は、モジアナ線ズモン耕地に入耕。「過酷な労働環境で、食べ物もあわず言葉も分からないなか、大変な苦労だったようだ」とドロシーさんは聞いている。その3カ月後には、ノロエステ線ピラジュイ耕地へと脱耕した。
転耕後、間もなく08年10月15日、ドロシーさんの母・芳子さんが、二世第1号として産声を上げた。妊娠7カ月で生まれて未熟児だったため、「『日本人はなんて小さな人種なんだろう』とブラジル人から言われていた」というが、健やかに成長していった。
その後、一家に悲劇が襲う。リオ州ノーバ・イグアスに移り、米作に従事していた矢先、マラリアにかかり、家長・敏政さんがこの世を去ったのだ。芳子さんは当時2歳。一家は、義弟を頼りにサンパウロへ出た後、各地を転々として筆舌し難い苦労を重ねた。
そんななか、未亡人タニさんは香山六郎(こうやまろくろう)さんと再婚。暮らしに落ち着きを見せたと思われるのは、1921年になってからのこと。ノロエステ地方発の邦字紙の必要性を感じていた六郎さんは、バウルーに拠点を置いて「サンパウロ州新報」を創刊したのだ。
ここで初めて、母・芳子さんは小学校に通うことができた。当時はまだ12歳のことだった―(明日から6面へ、つづく、大澤航平記者)