ホーム | 日系社会ニュース | 《ブラジル》母は二世1号で国際結婚=笠戸丸三世ドロシーさん語る(中)=周囲の猛反対押切って結婚

《ブラジル》母は二世1号で国際結婚=笠戸丸三世ドロシーさん語る(中)=周囲の猛反対押切って結婚

英人コロニアで暮らした一家

英人コロニアで暮らした一家

 一家はその後バウルーで暮らす。厳格な継父・香山六郎のもと、家の手伝いに追われ苦労を重ねた母・芳子さんだが、そこで運命となる出会いが待ち受けていた―。
 その相手こそ、英人男性パーシー・ウィリアム・ジョーンズさんだった。英国人一世で、一人でブラジルへと渡ってきた。
 当時は電気会社に務め、奥地を転々とする仕事をしていたが、そんななか視察先で出会ったのが、芳子さんだった。熱烈な求愛を受けて交際が始まり、言葉の壁にもめげず、1930年に結婚する。当時はコロニアでは国際結婚はまだごく珍しい時代だった。
 それゆえ、若い二人が結婚を願い出るも、香山六郎は「外人との結婚など持ってのほか」と猛反対したという。だが二人はそれを押切って、登記所で婚姻を済ませた。祖母タニさんは、しばらく泣き伏せていたが、二人の意志は固かった。
 「ワインや日本酒、和菓子などを手土産に、総領事館や両親、親族の家を訪ね、『結婚の報告と共に、罰を受ける所存だ』と挨拶をして廻った」とドロシーさんは聞いている。「当時はそうでもしなきゃ、結婚できなかったのでしょう」としみじみと語る。
 結婚後、新婚夫婦はコロニアの目が厳しいバウルーを離れ、1934年にはサンパウロ州北海岸部のカラガタトゥーバの果樹園管理者として赴任した。反対を押切って結婚し、距離的に離れたことも合わさって、両親との関係はしだいに遠のいていった。
 だが、祖母タニさんの体調が優れないことを知り、芳子さんが文通でやり取りするなかで、医療健康に造詣の深いパーシーさんが処方を施すうち、タニさんの体調も回復した。時間と共に「祖母も父のことを気に入り、兄が生まれたときは大変喜んだそうです」と語る。
 芳子さんは三人の子に恵まれ、一家は当地の英国人コロニアのなかで暮らした。だが「外見が違うことで、嫌な目に合うこともあった」とドロシーさんは述懐する。
 第2次大戦中は、敵性国民とされ、地元警察から海岸部立退きを命ぜられたこともあった。パーシーさんがなんとか交渉にあたって、英人の妻子ということで何とか難を逃れた。
 子供心に国家の狭間で悲痛な経験をしたようだ。(つづく、大澤航平記者)