1913年9月6日、島貫兵太夫初代力行会会長は、47歳の若さで病いに倒れ、渡米中であった永田稠氏が遺命により、翌年の1914年に二代会長に就任します。
6年ぶりに帰国した永田会長の前には、大きな難題が横たわっていました。それは大講堂建設による財政破綻と日本力行会の再建です。
「力行会は、単なる社会慈善団体ではなく、世界的視野を持つ移民教育の推進力になりたい」と呼びかける永田会長の周りには、新しい人脈が構築されていきます。
教育界に大きな影響力を持つ沢柳政太郎博士や新渡戸稲造博士を力行会の顧問に迎え、力行会は再び活気を取り戻し、永田会長は、海外移住事情に精通する第一人者となりました。
永田会長は、沢柳政太郎博士から、文部省の海外子女教育実情調査の推薦状をもらって、1920年3月初めてブラジルのイグアッペを訪れ、のちにアリアンサ移住地の先駆者といわれる永田稠・北原地価造・輪湖俊午郎の三氏がここに勢ぞろい。利益を目的とした移民会社に頼らない、自営農民のための移住地建設を目指すドラマが、ここから始まります。
サンパウロ市から北西に600㎞離れた現ミランドポリスの大原始林に、1千家族の日本人移住者が1万アルケール(1 alqueire=2.42ha)を開拓するという壮大なドラマです。
それ以前は出稼ぎ移民が主流でしたが、永住目的のアリアンサ移住者のなかには、ピアノやバイオリン、テニスや野球道具、さらには天体望遠鏡まで担いでやってきた人もいました。
アリアンサは、武者小路実篤の「新しき村」建設を夢見た弓場勇農場、「芸術すること、祈ること、耕すこと」の農民バレー団ユバや、歌人・岩波菊治、俳人・佐藤念腹など多くの芸術家を生んだ、日系ブラジル文化の発祥の地としても知られています。
さて、ブラジル力行会の創立は1917年となっていますが、これは、日本力行会が全国の支部長を決定した時に、隈部光子会員をブラジル支部長と命名されていることがあとで解かり、戦後開かれたブラジル力行会の理事会で、1917年を創立記念の年に定められました。
実際には、隈部光子会員がブラジルに移住した1906年から力行会創立年の1917年までに、アリアンサ移住地建設の立役者・輪湖俊午郎氏と北原地価造氏、サンパウロ市コンデ街の本屋・遠藤常八郎氏、文教の前身・教育普及会会長で、日伯新聞の主事で終戦時に臣道連盟のテロの犠牲になった野村忠三郎氏など16人の会員が在住していました。
ブラジルへの力行会員の本格的な移住は、1920年頃からです。アメリカの排日運動を逃れてブラジルへの再移住者・井原恵作団長が率いるブラジル開拓組合一行が着伯した1922年から、にわかにブラジル力行会の活動が活発になってきました。