黒田喜与美さんは、「とにかくお金がないのよ。夫にはひたすら『辛抱してくれ』と言われて、ショックを受けたわ。『コップ半分でも』と油を分けてもらったりした。最初10年間ぐらいボラッシャ(ゴム)やっていたけど利益が出ないのよ。野菜作りに切り替えたけど、フェイラ(市)に持っていっても売れない。当時のブラジル人は野菜が何だか分からなかったのよ。仕方ないから、塩かけてエスペリメンタ(試食)させた。外から人が入り始めて、ようやく野菜が売れるようになり、土地やトラトールや車を買えるようになった」と思い出す。
田辺さんと同じく、喜与美さんもマラリアに苦しんだ。「毎年マラリアに罹るの。2回ぐらい死ぬ直前まで行ったわ。震えて、震えて。医者ですらおてあげの状態。しまいには医者から『あなた仕事したら死にますよ』と脅された。でも働かないと食べられない」。
83年頃に移住地からポルト・ヴェーリョの町にでた。夫は1983年にPV市内に「黒田鍼灸整骨院」を開き、《現在の医学から見放されたような患者の治療に新技術を導入しすばらしい成果が出ている》(同50年史126頁)との評判をよび、ロンドニア州内はもちろん、隣のアクレ州からも患者がやってくるようになった。
だが、移住地の農場を任せていた長男を悲劇が襲った。「大雨が降っていた日だった。コロニアの中で、カサンバ(トラック)が向こうから来て、道をとめた。強盗だった。うちの使用人の頭に袋をかぶせ、金目のものを取った。長男は犯人の顔を見てしまった。だから殺されて、マット(森)の中に捨てられた。だから、危ないバンジード(悪党)がいるところに住むのは、お金をもらってもイヤ」
そんな驚くべき経験が次々に出てくる。「一時はマナウスに出ることも考えたけど、家族が多いからできなかった。夫の家族15人が一緒に住んでいたから。あたしたちには、ここにしがみついていくしかなかった。だって、あっちに行ったら一からやり直しでしょ。でも、しがみついてきたから今がある」と自分に言い聞かすように言った。
「ここから60数キロのところに牛2千頭を飼っていたのよ。子供5人のうち4人は大学に入れた。東京で暮らしていたら、こんなにはなれなかったと思う。そう思うと落ち着くわ」とほほ笑んだ。
重人さんは亡くなる少し前、枕元に喜与美さんを呼んで、こう言った。
「顔を摺り寄せて、『ゴメンな。お前が来てくれたから、こんな生活ができた。ムリヤリな結婚だったが、お前が来てくれなかったら成功しなかった』って言ったのよ。私は愛を知らないで嫁に行って、ただ食べるために仕事をひたすらしてきた。でも夫は亡くなる前にそんなことを言ってくれた。夫がいたから、アタシはこんな生活ができたと思っているわ。夫が建ててくれた家に住んで、一番下の娘と生活している」と幸せそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)