ポルト・ヴェーリョのトレゼ・デ・セテンブロ移住地では、家長の妻が2人しか生存していない。その一人、門脇敏子さん(90、山形県山形市)にも話を聞いた。
のっけから「主人がブラジルに行くと言い出した時、私は反対した。町の生活が好きだったのよ。戦争中も山形市は空襲がなく、食べ物こそ不足したけど、割と恵まれた生活だった。両親に『神戸から逃げ帰ってこい』と言われたけど、子供がいたから仕方なく船に乗ったの」と言われて、考え込んだ。
移住を言い出すのは家長たる男性の場合が多い。子供の場合はどうしようもないが、大人になって自分なりの考えや判断がある女性は、ある意味、家族の中で一番ツライ立場にあったのかもしれないと痛感した。
「最初から『日本に帰りたい』って、そればっかり言ってました。50年間ぐらいはずっと帰りたいと思っていた。最初の頃、日本食がなくて本当につらかった。日本への郷愁で胸が張り裂けそう。日本人だけじゃなくて、外国人はみんなそうでしょ。『お金ができたら帰ろう』と思い続けたから、ポルトガル語は結局、憶えなかった」。
日本語教育に貢献したとの功績を認められ、2013年に日本政府から旭日単光章をもらった。「日本で小学校の教師をしていた。他に教員していた人はいなかったし、子どもたちが日本に帰る時に必要だから、自分の子供に日本語を教え始めたんです。そしたら他の人からも子供も教えてほしいって言われて、学校になった」。
敏子さん息子、道雄さんによれば、門脇家のお爺さん・多喜治さんは土木建築のなりわいとし、「戦前は山形で十指にはいるぐらいだったと聞いています」。父・勝治は身長1メートル80センチの大男で大工をしていた。第2次大戦で徴兵され、南洋のラバウル、ガダルカナルなどで通信隊員をしていたという。
道雄さんは「父は親の仕事は自分には合わないと考え、かといって冬場に東京にデカセギに行くのもイヤ。母は小学校の教師をし、ぜんそく持ちだった。山形の冬は寒すぎる。暖かいところへ行けばよくなると思ってアマゾン移住を考えたそうです」。
移住した時、道雄さんはまだ5歳。「パナマ運河を通過する時、父がバナナを一房買ってきてくれた。ものすごく美味しかったのを覚えています。不思議なもので忘れないんですよね。あのパナマの匂い」。
道雄さんは「父は農業をやったことがない人だった。最初の頃、野菜作ってもブラジル人が食べない。マンジョッカやサトイモを植えたりした。そのうちアバカシ(パイナップル)作って生計を立てられるように。僕らも仕事を手伝うようになり、1970年頃から養鶏をはじめ、当時珍しい機械化を進めた。だけど83年にBR364が舗装され、サンパウロから安い卵がたくさん入って来るようになり、太刀打ちできなくなり辞めた」。(つづく、深沢正雪記者)