門脇道雄さんはしみじみいう。「父はよく、こう言ったものです。『ロンドニアにまっすぐ来たが、それでよかった』と。昔は皆、まずサンパウロやパラナを目指した。だけど、時代はまわり巡って、今では彼らやその子孫が、ロンドニアを目指すようになった。『自分たちは最初からここを目指して正解だった』とね。まあ、自分が苦労した慰めを言っていたんでしょうけど」と大笑いした。
歴史的に見ると、最初の「農業のフロンテイラ」は北東伯(ノルデスチ)のサトウキビから始まり、その後はリオやミナスのカフェ、その後、サンパウロやパラナのカフェ、そしてマット・グロッソの大豆やトウモロコシ、最後がアマゾン奥地アクレ、ロンドニア、アマゾナスの穀物といえる。もうそれ以上の奥はない。まさに「最後のフロンテイラ」だ。
かつての「地の果て」が「最後のフロンテイラ」に変わった。時代の方が、ようやく追いついたのかもしれない。
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グァポレ移民の竹中芳江さんの夫・清さん(82、神奈川県)も実はアマゾン移民だ。グァポレ移住の翌年1955年2月、アマゾン河中流ベルテーラの連邦政府ゴム園に入った。「ここの人と同じ辻移民枠で、ゴム作りを目指していた。19歳、構成家族として来た。全部で60家族だった。僕は風来坊だったから、本当はアメリカに行こうとしたが難しかったからブラジルへ。ベレンで汎アマゾニア日伯協会の生田勇次会長も同船者。彼はあの頃、5、6歳の幼児だったね」。
グヮポレとベルテーラは基本的には同じ時代背景だ。ただし、受け入れ態勢はまったく違った。
「僕らが着いた時、病院、住宅、飛行場まであったよ。しっかりした受け入れ態勢で、24クルゼイロの給料までもらった。でも6カ月ぐらいしたら政府から突然『自由行動にする。どこにでも行ってください』って言い渡された。いきなり、バラバラに。本当は3年間の契約だったんだよ。もうゴムの生産が引き合わなくなっていたんだ」
時代の流れだった。「仕方ないから僕はサンタレンで1年ほど働き、仕事を求めてサンパウロへ。辻コンパニアの店があったら、そこで働いた」という。
皮肉なことに、受け入れ態勢が整っていたベルテーラはなくなり、態勢がなかったグヮポレが今も残っている…。そしてPVは人口51万人を誇り、アマゾン河水系ではマナウス210万人、ベレン144万人に次ぐ大都市になった。
「ポルト・ヴェーリョの町は大発展した。ベルテーラはただの大豆畑が延々と続いているだけ。ここは大変だったが、今も続いている」と竹中さんはしみじみと語り、しばらく黙った。その沈黙は「何が二つの移住地の運命を分けたのか?」と問いかけてくるようだった。(つづく、深沢正雪記者)
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