サンパウロ州の南部、大西洋岸近くにリベイラという大河が流れている。パラナ州に源を発し州境を越え、蛇行を続けながらも進路をほぼ北東にとり、セッテ・バーラスに至って向きを東南に変え、レジストロを経てイグアッペで大西洋に流れ込んでいる。無数の支流・支流の支流を含めて、その流域には、往年、邦人の開発前線が存在した。その話に入る前に、紹介しておきたい人がいる。
この地方の中心的な都市はレジストロであるが、そこから南西へ少し行った処にカジャチというムニシピオがある。ここに数年前まで「福田のお婆ちゃん」と愛称される80代半ばの婦人が住んで居って、その魅力的な人柄や個性的な暮らしぶりが、評判になっていた。
偶々、2012年7月、リベイラ流域を旅していた筆者は──レジストロで出会った地元の消息通の勧めと案内で──福田家に立ち寄ってみた。郊外のバナナ地帯にある小邸宅の庭先で、短時間、お婆ちゃんと話をしたが、確かに魅了された。小春日和の中で、そよ風に吹かれている様な心地良さを味わった。
このお婆ちゃんは、昔バナナ作りとして名を馳せた故福田孝さんの夫人である。驚いたことに、その齢で、カマラーダ5人を使って、3万本のバナナ園を営んでいた。しかも80歳までは、自身トラトールに乗って農作業をしたという。生計のためではあるまい。
レジストロの文協で聞いた処では「会員として、随分、寄付をしてくれています」ということであった。お婆ちゃんは「マリードの死が生涯最大の悲しみ」と洩らしていたから、孝さんが元気にバナナを作っていた頃の思い出と共に暮らすためであろう‥‥と筆者は想像した。
その名は俊子。生れは1928(昭3)年で、なんと、カラフトだという。幼児の頃、両親、兄、姉と共に内地に移り、やがて遠く海を渡ってサントスに上陸、セッテ・バーラスに在ったキロンボという植民地に入った。12歳だった。2年後、ファミリアとそこを出た。
年頃になって結婚、後年、マリードや子供たちとカジャチに来た。
筆者が寄った時、お婆ちゃんは一人暮らしだったが、敷地を接して隣りに娘さんの家族が住んでおり、息子さんたちの家も近くにあるそうで、「以前は、いつも、小さな孫たちが遊びに来ていて、私が畑から戻ると、7~8人が歓声を上げながら駆けてきました。それが、皆、大人になり、隣りに残っている一人以外は、サンパウロと日本におります。けれども、ひ孫たちが時々、会いに来てくれます。遥々日本からも。電話もしてくれます。可愛いですねエー」と、まことに幸せそうであった。
筆者は、その日は、この程度で辞去したが、後日、お婆ちゃんが端倪すべからざる器の持ち主であることを知った。そこで半年後の2013年1月、再度リベイラ流域を旅した時、改めて訪問した。お婆ちゃんはサーラで、日本製の高価な茶菓を頻りに筆者に勧めながら、取材に応じてくれた。
以下は、その折詳しく聞いた話である。──実は、この家を、二回、強盗が襲った。一回目は10年ほど前のことで、庭で突如「おバアちゃん!おバアちゃん!」と悲鳴が上がった。飛び出すと、覆面をした男が12歳の孫娘を背後から抱きかかえ、ファッカを突きつけていた。
「何をするか!」
お婆ちゃんは叫んだ。男が言った。
「金を出せ!」
瞬間、そのファッカをパッと手で掴んだ。叫んだ。
「金なんかない。お前を殺してやる!」
ファッカのギザギザの刃が、手の平に食い込んだ。男はビックリして逃げて行った。手の傷は幸い大したことはなかった。
二回目は3年前で、ポルタの外側で、隣りに住む娘が「おば~ちゃん、おば~ちゃん」と呼んだ。開けると、娘の背後に覆面をした賊が4人居た。押し入ってきた。この時は静かに優しく、「お金はあげますヨ。人を傷つけてはいけませんヨ」と諭しながら、賊たちの自由にさせた。
彼らは一時間くらい家の中を探し回り、現金1万5千ドルとダイアモンドの首飾りや指輪を奪って行った。その間、お婆ちゃんの醸し出す雰囲気に、賊の一人も魅了されたようで、なんと、去り際に「自分にも両親が居る」と握手を求めてきた。その手が女のようだったという。
宝石は、昔マリードが買ってくれたもので、お婆ちゃんは「アレだけはとられたくなかった」と無念そうであったが、話をこう締め括った。
「怖くもなんともなかった。今度来たら、カフェーでも出してやろうか‥‥と思っている」
筆者は、以後、この一言を思い出す度に、痛快になる。前世紀からの強盗の跳梁跋扈による翳りの濃い日系社会史上に、キラリと光を放っている様にすら感じる。
お婆ちゃんには、また後で、登場していただく。(註=「リベイラ河」は略称。正確には「イグアッペ・リベイラ河」。但しパラナ側では「リベイラ河」。州境で呼称が変わる。「流域」という言葉の定義は幾つかあるが、本稿では「河川の流れる地域・地方」の意味で使用)