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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(2)=桂植民地(Ⅰ)

 リベイラ流域の邦人の開発前線には、それを構成する植民地と集団地が数カ所ずつ在った。前者は東京に本社を置く移植民会社が造った。後者は自然に生まれた。
 前者の第一号が、イグアッペの桂植民地である。
 2012年7月、筆者は、既述の最初の流域の旅の折、レジストロの文協で、会長の金子国栄さんに「桂はどうなっていますか?」と訊ねてみた。イグアッペは南隣りのムニシピオである。金子さんは、こう答えた。
「さあ、どうなっていますか‥‥。なにしろアソコへ行くには、河(リベイラ)を渡らねばならないのですが、橋がないのです。住んでいる人も、多分もう居ないか、居っても一家族か二家族‥‥」
 意外だった。桂は、ブラジルで日本人が初めて造った植民地でもある。が、この地方の日系社会の中核的存在であるレジストロ文協に於いても、漠とした存在になってしまっているのだ。以後、気になり続けた。
 翌2013年1月の再度の流域の旅の折、筆者は文協で、金子さんに現地入りの希望を話してみた。すると、金子さんは後で、イグアッペの文協に電話をしてくれた。
 が、返事は要旨「現地には、もう誰も住んで居らず、地主も変わっている。それが誰であるかも不明。立入りを許すかどうかも判らない。向こうまで行くのも簡単ではなく、確かな案内人がつかないと無理」だった、という。
 これには(えッ!)という思いだった。桂はすでに存在せず、その跡を訪れることさえ難事になっているのだ。
 しかし、もし、そうだとすると、筆者の様な日系社会の歴史を取材・調査している者にとっては、聞き流すことのできないニュースだった。それを自分の目と足で確認、記録に残しておくべきであった。どうしたらよいか思案をしながら、ホテルへ戻った。
 翌日、別用でまた文協へ顔を出すと、金子さんが「イグアッペの心当たりにアチコチ電話をかけ、案内を頼んでみたんですが、あまり良い返事は‥‥」と首を振った。しかし、こう続けた。
 「試しに、前市長のカブラールさんに話してみると、明日は他所へ出かける予定だったが、そういう事情なら、それを中止して案内しよう、と言ってくれました」
 筆者は、そこまで金子さんに期待していたわけではなかったが、気を利かして、そうしてくれたのである。ともかく朗報だった。カブラールさんは親日家で、夫人は日系人、現副市長だという。
 筆者の取材は、こういう具合に他人(ひと)の善意と助けによって、一歩一歩、前進して行くことが多い。従って、でき上った作品は、その協力者たちとの合作である。
 翌日、文協副会長の福澤一興さんが、車で同行してくれた。福澤さんはカメラを持っていて、こう言った。
 「今年は、この地方に日本人が入って100年になります。1913年、植民地用の土地を今のレジストロで手に入れ、(それとは別に)桂植民地を造り始めました。我々は記念行事を予定しています。丁度良い機会だから、写真を撮っておきます」
 そう聞いて思い出したのだが、桂の創立は確かにその年であった。が、同じ年、もう一カ所、土地を入手したという点に関しては、筆者の記憶はボケていた。
 後で資料類を見てハッキリしたのだが、東京に本社を置くブラジル(伯剌西爾)拓殖㈱の青柳郁太郎が、やってきて、まずリベイラ河の中流の沿岸で、州有地の払下げを受けている。
 福澤さんが、それを「今のレジストロで‥‥」と表現したのは、当時、そこはイグアッペの一部で、後にムニシピオ・レジストロになった地域だからであろう。
 ただ、青柳は、その土地はそのままにして、直後、下流のジポブーラという所で桂を造り始めている。どうも、不自然な動きだ。それについては次項で取り上げる。
 福澤さんの運転する車は、レジストロから州道を東南へ70キロほど行き、イグアッペの町に入った。中心部に中世風の建築物が多くあり、教会、商店、住宅として使用されていた。本稿の第二部『南パラナ寸描』で紹介したアントニーナとソックリだった。
 実は、イグアッペも500年近い歴史を持つ古都なのである。従って、かつては大きなムニシピオであった。ところが、内部の幾つもの地域が次々と分離、別のムニシピオとして独立したため、小さくなってしまった。
 我々はカブラールさんとの待合わせ場所の、地元の文協に着いた。すると奥から、小柄な30代くらいの日系女性が近づいてきて、ポ語で話しかけてきた。ひどくシッカリした感じで(誰だろうか?)と思ったら、これが副市長のルミさんだった。カブラールさんも居た。こちらは、ガッチリした体格の中年の非日系の男性である。
 ところが、その口から発せられたのは日本語であった。
 「3度、訪日しました、今年も行きます」と。夫婦して天理教の信者で、100周年を記念して、モヌメントを建てる計画を進めているという。                                  
 窓の外に雨が降り始めていた。居合わせた文協の役員や会員たちと雑談をしながら、止むのを待った。やがて小降りになったので、我々は二台の車に分乗して出発した。
 カブラールさん、そしてモヌメントを制作するというアルチスタ二人、文協の役員一人が一緒だった。アルチスタたちは想を練ることが目的のようであった。
 途中、小さな緑地の傍で車が止まった。記念碑があり、ポ語で日本人のイグアッペ入植の経緯が簡潔に記されていて、中に青柳郁太郎の名があった。
 (註=文中の「ムニシピオ」は、訳せば市、町、村、郡、「プレフェイツーラ」はその役所や役場であるが、実際の処、区別は難しいので、訳さずに使用している。「プレフェイト」はその首長であるが、慣例に従い総て市長と訳した)