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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(3)

     桂植民地(Ⅱ)

 周知のことであるが、日本の対ブラジル移植民事業は1908(明41)年、高知県人水野龍によって始まった。しかし、最初の笠戸丸移民は失敗した。原因は多々あったが、その一つが「実態をよく調べず、カフェー園の労務者として、移民を送り込んだこと」にあった。
 この、いわゆる「カフェー園移民」を始めから否定、別の方法でやろうとしたのが青柳郁太郎である。彼は、日本の移植民業界では、水野より古参で、ブラジルについても早くから研究をしていた。
 その上で「移民は、奴隷時代を思わす劣悪な生活環境で、苛酷な労働を強いられるカフェー園移民ではなく、初めから植民地を用意、そこで自営させるべきである」と「植民地移民」を構想していた。自分が現地に乗り込んで、適当な土地を確保しようとも考えていた。
 その構想推進のため、1908年「東京シンジケート」をつくった。この場合のシンジケートとは、当時、例えば英国の実業家たちが相図って、大型の事業を起こす場合、出資者を募るために設立した組織である。今日の発起人会に当たろうか。「〇〇〇〇シンジケート」と名乗った。
 「東京シンジケート」という名称は、それを真似たものであろう。メンバーには青柳のほか、前逓信大臣の大浦兼武ら大物がズラリと名を連ねていた。
 次いで1910(明43)年、青柳はシベリア経由で渡伯、サンパウロ州政府と交渉、イグアッペに在る州有地5万ヘクタールの払下げを受ける契約を結んだ。その契約では、5万ヘクタールは一カ所ではなく何カ所かの合計で、土地は州政府が提示する候補地を、青柳が視察、選定することになっていた。そこに日本から計2、000家族を直接入植させ、土地を持たせ自営させる──という壮大な企てであった。
 成功すれば、日本人の海外発展史上に残る大事業になろう。幕末に生まれ、明治の新国家建設の熱気の中で生きてきた青柳は、燃えていた筈である。
 払下げは無償譲渡だった。但し、州政府と契約した開発(森林伐採)、施設建設、入植などを規定の期間内に実行──という条件が付いていた。が、5万ヘクタールという土地をタダで貰えるのである。日本なら絶対有り得ない夢の様な話であった。しかしタダより高いモノはない──という諺もある。現に、そういう結末になる。
 それには追々触れるが、この時点では、その成果を携えて勇躍帰国、東京シンジケートで出資者を募った。ところが、応じる者は無かった──。当たり前のことで、勧誘を受けた側にとっては、地球の反対側の、雲をつかむような話であり、迂闊に乗れるわけはなかった。企ては頓挫した。
 1912年、第三次桂太郎内閣が発足、大浦が内相として入閣した。これを機に首相の助力を得て、有力な実業家たちを口説き、なんとか30余人から出資の約束をとりつけた。次いで事業具体化のためブラジル拓殖㈱を設立した。
 青柳は現地担当の役員となって赴任、前項で記した様にリベイラ河の中流の沿岸、今のレジストロで、州有地の払下げを受けた。広さは1万6、000ヘクタールで、殆どが未開発の森林地帯だった。
 ところが、ここで、悶着が起きた。その土地の相当部分に関し「そこは自分の私有地だ」と主張する者が現れたり、先住者が居て占有権を云々したり──と、全く予想外の展開となったのである。州政府の仕事がブラジル式で、粗雑だったのだ。そういう悪癖を知らぬ青柳は呆れ、苛立ち、困惑した。
 それを知ったイグアッペの有力者アントニオ・ジュレミアスが、プレフェイツーラでジポブーラという所に在る1、400ヘクタールの土地を提供するから、試験的に小型の植民地を造らないか──と勧めた。これも土地代はタダであった。
 ただしジポブーラは、イグアッペの町の西方、リベイラ河の対岸の広大な樹海の一部であった。従ってその中の1、400ヘクタールは点の様な存在だった。外部へ通じる道も橋もなく、輸送・交通はリベイラを上下する蒸気船に頼る以外なかった。植民地に適した立地条件ではなかった。
 が、何故か、青柳は、その勧めを受け仕事にかかってしまった。(以上が前項で指摘した「不自然な動き」の詳細である)
 そして、その土地に取り敢えず──予定していた日本からの直接入植ではなく──既移住の邦人を入れようとして募集した。ところが、応募者は、この場合も、いなかった。これには唖然としたが、止むを得ず、サンパウロの──邦人が集って住んでいた──コンデ街に居って、仕事を探していた20数家族を勧誘して入植させた。
 それが1913年11月のことである。前月、日本で桂首相が故人になっていた。1、400ヘクタールはジポブーラ植民地と呼ばれていたが、翌年、桂植民地と改名された。
 話は、前項で記した2013年1月のイグアッペの町、小さな緑地に戻る。我々は、そこを離れ、郊外へ出た。農場地帯の細い土道を10数キロ行くと、河岸に着いた。向う岸までは100㍍以上ありそうだった。水が人間を圧倒する迫力で、悠々と流れている。底は相当深そうである。これがリベイラ河であった。
 植民地の跡は対岸の、やや上流にあるという。近くに橋はない。なるほど簡単には行けない。どうやって渡るのか?見ると、カブラールさんが付近の住民と何か話している。やがてボートが二艘、用意された。いずれも3、4人が限度のブリキ製である。後部の舵付きのモト―ルの傍に、総舵手が一人ずつ腰かけている。
 我々が乗るとモト―ルが唸り始め、ボートは動き出した。すぐ速度を上げた。水飛沫を浴びた。筆者は、この現地入りを、安易に考えていたことに気づき、カブラールさんに、申し訳なく思った。通常の取材協力の域を越してしまっていた。